見出し画像

「さゆ」と言ったことがない。

夕方はラジオだった。
日中はめっちゃ暇。今日も相変わらずの給料泥棒、窓際族。
ずっと読書とかしてたんだけど、机の高さが合わないせいか、肩や背中の凝りがひどい…。(>_<)

帰り道のカーラジオ。
「気球に似た飛行物体。」
ってなんやねん?
「個人の判断に委ねる。」
ってなんやねん?
なんか、すっごくいやな感じがする。

だいたい後者の話題はさ、そもそもが「個人の判断」なんじゃないの?
私、来月13日になっても、外さないかもしれない…。

私、年がら年中ネクタイをしている。
前の前の職場で、夏場に県知事が来ることがあって、県庁から、
「クールビズの期間だから(知事もネクタイをしないので)ネクタイを着けないように。」
と事前に文書があった。当時のボスからも、(そもそも誰もしていないというのに!)「明日はネクタイを着けないように!」とのお達しがあった。
私は、「『ネクタイを着けろ』と言われたこともないのに、『着けるな』とは何ごと?」と思い、その日以来ネクタイを外さなくなった。

そんな話、どうだっていいや。

 ***

まったく別の話。

私、「目線」ということばをほとんど使ったことがない。
このことばを初めて耳にしたのは小学生のころ。
(いや、「視線」か「視点」やろ?)
と思って重たい『広辞苑』を父の本棚から取り出し、引いたことを覚えている。
そして、うちの『広辞苑』には載っていなかったことも記憶している。

だから(?)、いわゆる最近みんなが使う用法での「神」も、ほとんど使ったことがない。(もちろん(そういう使い方での)「鬼」「鬼畜」なども。もちろん、「クソ」も使わない。)

そんな私だけど、「研究所」を修了するときの論文に(わざと)「真逆」と書いてみた。
「真逆」ということばを初めて耳にしたのは松尾スズキの「マシーン日記」だったと思うので、1996年のことのようだ。片桐はいりが「真逆」を連呼して笑いを取っていたから、そのころはまだまだ「新しい」ことばだったんじゃないかと思う。
論文に書いた「真逆」は、論文の審査に当たってくださった3人の教授の中で一番若い、そして、私とは仲の悪い、一度はケンカをしたこともある教授から、
「論文に『真逆』はないでしょう。」
と言われた。が、結局そのまま提出した。

飲み屋さんでの「おあいそ」もあまり使わない。「お勘定」(とか「ごちそうさまです(^ν^)」)と言うことの方が(たぶん)多い。お寿司屋さんでの「むらさき」「しゃり」「なみだ」「がり」「あがり」なども基本的には使わない。これらはお店の人が使うことばだと思うから。

仕事柄、「とちる」「言い間違える」という意味での「噛む」は使ってしまうのだけれど、使うたびに「あぁ、また使っちゃった…」と気持ちがザラザラする。これもまた、専門用語(ですよね?)。「ひょうきん族」とか、最初の(?)漫才ブームのころから一般にも使われるようになったのではないかと私は理解している。

特定の職種の専門用語を、そうでない者が知ったような顔で使うのはあまり行儀の良いことではないと思う。

飲食の話題に戻ると、「おひや」もあまり言わない。「お水ください。」と言う。嘘かホントか、「おひや」は皇室用語だという。
20歳代のころ、女の子と喫茶店にいたとき、「すみません。お水ほしい。」と言ったら、「『ほしい』じゃなくて『ください』でしょ!」と叱られた。

最近、「さゆ(白湯)」が流行っている(?)ような気がするのだが、こじか家(実家)では「おさゆ」と言っていた。私は今もなぜか呼び捨てにできない…。

 ***

それとはまたまったく関係ない話なのだが、今日、中井久夫『私の日本語雑記』を読んでいたら、こんな表現があった。曰く、

「日本語では連用形がもっとも元気な活用形である。日本語のしなやかさ、流れるような感覚は連用形に負うところが大きいと私は思う。」
「日本語の叙述は基本的には時間的な流れである。連用形が連体形につながり、連体形が体言に落ち着く。その体言がまた新たな流れを作る。流れの比喩を続ければ、用言は瀬であり、体言は淵である。」
「文法学はどこか数学に憧れている気がする。完全で閉じた体系への憧れである。たしかに言語は規範であるが、ゆるやかな規範であろう。新生児はすべての言語を母語とする能力を持っているからである。」

中井久夫『私の日本語雑記』(2022年、岩波現代文庫)

難しくてちっとも分からないが、なんか、カッコイイなぁ。