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三つ子の魂。

幼い頃に教わったことって意外といつまでも覚えているもので、私は、ひらがなの「し」は上に点を打っても(点があっても、と言う方が正しいか。)良い、「そ」の上は点々(ソ)でも良い、数字の「3」は「ろ」でも良いと教わり、(「ろ」の「3」以外は)今でも使う。

そして私は「原稿用紙の行頭の「っ」や「ゃ」「ゅ」「ょ」は前の行末に押し込む」派なのだが、これはどうも(かなり?)少数派で、あまり賛同されたことがない。けれど、(例えば「行頭」(というかめくったページの最初)に「人々」の「々」があっても読むことができないから行(やページ)を跨ぐときは前行の最後にも次行の頭にも「人」「人」と書く(今では新聞もあまりそれを守っていないけれど。)のと一緒で、)「っ」が行頭に来るのは理屈で考えてもおかしいではないか。
そしたら、今日、こんなの(↓)を見付けた。

ほら、やっぱり。<(`^´)> 私ね、自慢じゃないけど、どうでもいいようなことばっかり、いつまでも覚えてるんですよ。
「5人に3個ずつイチゴを配ろうと思います。全部でいくつ必要ですか?」というときは、「3(個)×5(人)=15(個)」にするってこととか、さ。

 ***

実家の庭に大きな石がある。前、母と一緒に庭を眺めていたとき、母が、
「あんな石、いつどこから来たのか、全然覚えてないわ。」
と言うのだが、
「いやいや、お父さんが宝塚の石屋さんから買って、クレーンで入れてもらったんだよ。確か7万円だったと思う。」
と私。(今思うと、私が5万円もする星野道夫さんの写真を買ったり、16万円もするイランの絨毯(ギャベ)を(衝動的に)買ったりする「癖」はこのときの影響かもしれない。)
「家を建てた日(セキスイハイムと言って、トラックが何台も「箱(=部屋)」を運んでやって来て、それを積み木みたいに積み重ねる。)の写真がアルバムに残ってるんだけど、それも全然覚えてないわ。」
「それは私が小1の7月の平日で、学校を休んで見に来た覚えがあるよ。」

こないだ、京丹後にある安野光雅さんの美術館に行ったときに思ったのだが、道は一路北上しているはずなのに、川が、向こう(=北)向きに流れたり、こっち(=南)向きに流れたり、右(=東)向いたり、左(=西)向いたりするのだ。前にラジオで、「福知山(京都府)や豊岡(兵庫県)で川の氾濫が多いのは、川が入り組んで流れているのに、出口(河口)が狭いからだ。」と言っていたのを思い出したが、さらに、たぶん小学校に入るか入らないかの時分、家族でクルマに乗ってどこかに行くとき、私が横を流れる川を見て、
「この川は海に流れてるの? それとも海から流れてるの?」
と訊いて親に笑われたのはここ(この辺り)だったのかと合点がいった。

 ***

なのに「妻」からは、「何度も同じこと言ったでしょ? 何も覚えてないの? 信じられない。自分の都合の悪いところを覚えていないなんて、そういうところが本当にイヤです。」と言われる。

そうなのかもしれないし、いや、そうじゃないかもしれない。

給料日なので、「6」を送金する。
さらに、どういう仕組みなのかよく分からないが、毎月「7」のはずの「積み立て」が、給与明細を見ると今月は「14」も引き落とされている。
でも、それくらいが、今の私が息子のために出来ること。