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第1話「牛丼特盛」

「間に合えええええ!!」
 シャカシャカシャカ。
 シャカシャカシャカ。
 耳に入るのは風を切る音とペダルを漕ぐ音だけ。肩にでっかいデリバリーバッグの重みを感じながら、俺、手前仁則(テマエ ヒトノリ)は必死に愛用の自転車を走らせていた。
「人馬!! 一体!!!」
 前の配達先はどこぞの主婦だったのだが、延々と旦那の愚痴を聞かされた挙げ句にゴミ出しを押し付けられてしまった。フードデリバリーの業務にそんなことは含まれないが「足が痛くてあなたにしか頼めないの」と言われると弱い。「★1レビューつけるわよ」が決め手になったのは否定しがたいが、それはそれ。
 ロスした時間はスピードで取り返すしかない。さらに速度を上げた俺の自転車に道行く人の視線が刺さる。
「うお!?」
「きゃあ!?」
 風圧で女子高生のスカートがめくれた気がしたが振り返るヒマもない。たぶん薄緑だった。
「ラスト1件ーーー!!」
 経過すること数十分。現在地、注文のあったマンション前の駐輪場。
 注文は13時ちょうど。現在時刻は12時59分。
「ふはは、ざまーみさらせ……」
 安全とスピードの狭間、ギリギリのギリギリを攻めた奇跡の到着だった。達成感とむなしさが疲労した肉体を襲う。
「えっと、届け先はここの604号室。注文は牛丼特盛ひとつ、と」
 昔は4=死で不吉だからと各階の4号室がない物件も多かったという。それも古くなってきたのだろうか、どうやらこのマンションには普通にあるようだ。
 エントランスで部屋番号を押してインターホンを呼び出すとすぐさま繋がった。
「こんにちはー、出前城でーす」
 特に返事もないまま自動ドアが開いた。今のご時世、顔どころか声も聞かせたくないという注文者は珍しくない。防犯上は正しいんだろうが寂しいものだ。
 築10年も経っていない小綺麗なエレベータで6階へ。目的の部屋は手前から2番目。
「ごめんくださーい出前城でーす」
 返事はない。ドアノブにでも引っ掛けていいんだろうかと悩みだしたその時。
 まばゆい光が走った。
「確定演出……!?」
 ほんの一瞬だったがドアの外縁が光り輝いた。ガチャでSSRが出る時の輝きそのものだったがここは現実。マンションから☆3キャラが出てきたりはしない。
「中で爆発事故でもあったのか!?」
 緊急事態かもしれない。勘違いだったら土下座すればいいと割り切って604号室のドアノブに手をかける。幸い鍵はかかっておらず、勢いよくドアを開いて中に呼びかけた。
 そう、俺は“中”に呼びかけたはずだった。
「大丈夫です、か……?」
「ふぇ?」
 そこはマンションの一室ではなかった。
 地平線まで続く一面の草原の、その只中にぽつんと湧き出した池のほとりで、18歳くらいの銀髪少女が同じく白銀の鎧をまとってぽつんと三角座りしていた。池には見るからに手作りの釣り竿が垂らされている。が、釣果らしきものは彼女の脇に転がっているスマホ大くらいの石版が一枚のみ。顔に『空腹』と書いてあるような女騎士は心の底から「おなかすいた」と訴えるような目でこちらを見つめている。
 これは一体。
「どういうことだ……!?」

 マンションの扉を抜けると、そこは草原で三角座りしてる女騎士の前だった。

    ◆◆◆

 小学校の頃、足の速い奴は女子にモテた。
 運動音痴な俺には無縁の話だったが、そんな俺にもひとつだけ特技があった。
「ジンソクはえーーー!!」
「最強じゃん!」
「なんで負けねえの!?」
 自転車でだけは誰にも負けたことがなかった。平地でも峠でも、俺より前を走れる奴は学校に一人もいなかった。
「俺は誰の挑戦でも受けてやるぜ!」
 足の速い奴は女にモテるが、自転車の速い奴は男にモテる。女とか興味ねーしと言いたいお年頃の俺にとって、仁則を音読みしてジンソク、すなわち迅速というあだ名は十分な名誉で勲章だった。いつかツール・ド・フランスだって夢じゃない。俺は自転車で世界をとる。今にしてみればガキの妄想そのものだが、当時は本気でそう思っていた。

 中学時代。
 世の中には、俺が自転車に乗り始める前から世界を目指して努力してる奴らがいることを知った。自分が何に挑もうとしていたのかを理解して、俺は自転車で競うことをやめた。

 高校時代。
 才能を努力で覆せるのもまた、そういう才能なのだと知った。才能のせいとも努力のせいとも分からないまま俺は平凡に埋もれていった。

 それから十年。無限大な夢のあとにあったのは何もない世の中だった。
 大学を出るも就活に失敗し、やっと入った会社も三ヶ月で倒産。
 運命に振り回された俺は、なんの皮肉か自転車を使った仕事で糊口をしのいでいた。
「こんにちはー、出前城でーす」
 フードデリバリーの配達員である。
 人は言う。職業に貴賤なしと。どんな仕事だって社会のために必要で、誰かの役に立っているのだと。
 この立場になってみて強く思う。
 それを言うのは涼しいオフィスで命令してる奴か一度も働いたことない奴か、そのどっちかだと。朝から晩まで足がパンパンになるまで自転車をこいでも奨学金すら返せない人間など奴らの視界には入っていまい。
 ここまで一気にめぐらした思考は、しかし訛り混じりな声に遮られた。
「だ、誰!? どっから来んしゃった!?」
「はっ」
 しまった。あまりの非現実的な出来事に思わず人生を回顧してしまった。
 俺の目の前では女騎士様が目を白黒させている。草原の真ん中で釣りをしていたら背後にでかいリュックの男が現れたのだから無理もない。だが驚いたのは俺も同じだ。後ろを振り返ればドアはまだそこにあり、向こう側には東京の煤けた町並みが広がっている。
 無言でいる俺を警戒してか騎士様が腰のメイスに右手をかける。何か言わねば命が危ない。言葉は通じるようだが何を言えばいい。
 とっさに口をついて出たのは、何百回と言ってきたこの台詞。
「で、出前城でーす」
「デデマエ城? ど、どっかの城砦からの救援とですか!?」
「いえ、救援とかは分かんないんですが」
「さいですか……」
 しょぼんとしてしまった。なんだか申し訳ない。
 どう見ても外国人だが、日本語が通じるのは助かった。しかもなぜか方言。たぶん九州系だ。いったいこの状況はどういうことなのか、俺の脳は数年ぶりのフル回転をかました末にひとつの結論を出した。
「なるほど、コスプレ撮影というやつか!」
 マンションの一室をまるごとスタジオにしてコスプレの撮影をしていたに違いない。衣装も背景もものすごくリアルで気づかなかった。
 撮影の邪魔をしてもいけないしさっさと注文の品を渡しておいとましよう。
「あの、ご注文の」
「……伏せろ!」
「はい!?」
 いきなり女騎士が俺に飛びついてきたかと思えば、頭を抑えられて地面に伏させられた。彼女も伏せているから巨大なふたつのプリンが体重に潰されてむちっと溢れ出しそうになっている。
「すっご……!」
 さすが、これだけ金をかけるコスプレイヤーはスタイルも抜群だ。俺が知らないだけできっと人気のある人なんだろう。
 なんて考えていた俺の頭上を、何か液体のようなものが飛び越えて草原へと飛び散った。
「へ?」
 ジュウウウウウウウ……。
「ええええ!?」
 溶けている。草原に散った液体からは毒々しい色の煙が立ち上り、草ばかりか石までもをドロドロに溶かしてしまっている。地面に伏せていなければ俺に直撃していたはずだ。
 押さえられている頭をどうにか動かして右手を見ると、そこには牛くらいあるゼリー状の何か、ナメクジと言おうかスライムと言おうか、とにかく異形の物体がブルブルと蠕動していた。よく見ると半透明の体の中には人間の頭蓋骨らしきものまで浮いている。
「な、なんじゃこりゃあ!!」
 これが漫画なら解説役のキャラでも現れて丁寧に説明してくれるのかもしれない。だが実戦においてはスピードが命。俺の疑問に答える前に、否、俺が悠長に疑問など口にしている間に、女騎士は行動を起こしていた。
「はああああ!」
 ブォン、とメイスが唸る。パン、と派手に弾けるような音。彼女の細腕には似つかわしくない剛力でスライムが爆発四散する。
 あの流麗で力強い動き。足元に転がってきたどこぞの仏さん(頭蓋骨)のこの質感。いくらなんでも撮影セットなわけがない。
「まさか、現実……!?」
 俺のいる草原は本物で、俺は巨大ナメクジに命を狙われ、そして甲冑をまとった女騎士に救われた。
 こんなゲームみたいなイベントが現実?
 いったいどういうことなのか。ここはいったいどこなのか。彼女はいったい誰なのか。いろいろな疑問が渦巻いて何も言えない俺の前で、ばたりと何かが倒れる音がする。
 女騎士が、草原に倒れ込んでいた。
「だ、大丈夫ですか!?」
 思わず駆け寄る。助け起こしても大きな怪我は見当たらないが、いきなり倒れるなんて尋常じゃない。何が原因なんだ、何が……!

 ぐうううううううう。

 それはそれは大きな、腹の虫の声であった。どうやら今の戦いで空腹の限界を迎えてしまったらしい。心なしか女騎士も気まずそうに顔を赤くしている。
「聞かんといて……聞かんといて……」
 ここで俺の脳裏にひとつの可能性が浮かび上がった。
「あなたもしかしてシエルさん? シエル・ターコイズさんですか?」
 それは『出前城』に配達依頼を出した注文者の名前だった。
「なぜ、私の名を……?」
「ご注文の牛丼をお届けにきたんですが」
「ギュードン?」
「ほら、これ」
 背中のリュックを開いて持参した牛丼を見せると、女騎士の目の色が変わった。
 醤油ダレと濃厚な出汁、そして肉の脂が発する香りは人の脳細胞をダイレクトに刺激する。事情は分からないが相当に腹をすかせているらしい彼女の目は牛丼に釘付けになっている。
「ほんとに……」
「はい?」
「ほんとにきたぁ……!!」
 彼女は心底安心したようにその場で泣きだした。

    ◆◆◆

「おいひい、おいひいよぉ」
 泣きながら牛丼を頬張る女騎士様を横目に、俺は右手に持った石版をつついたりひっくり返したりしてみている。彼女の脇に転がっていたスマホ大のあれだ。
 見た目も手触りも味も石そのものだが。これが俺をここへ呼び寄せた、らしい。
「これが『アーティファクト』……。スマホの化石ですと言われればそう見えなくもないけど」
 女騎士の名はシエル・ターコイズ。代々騎士の家系でけっこうな名門だとか。
 彼女もまた騎士として国のために戦っており、今回も魔物討伐の任を受けて騎士団の仲間たちとともに行動中だったという。討伐対象の魔物がキャラバンを襲っているのを発見し、見事撃退したまではよかったが、最後の最後でシエルさんだけ空飛ぶ魔物にさらわれてしまった。
 隙をついて魔物を倒し、地上に降りはしたもののそこは草原のド真ん中。
「みんなのいる方角は分かるっちゃけど、ばり遠くって。やっと泉ば見つけて水はどうにかなって、でもひもじくてひもじくて……」
 魚の一匹も釣れまいかと試すも、引っかかったのは薄汚れた石版だけ。だがそれこそが失われた文明が世界のあちこちに遺した超技術の品物、通称『アーティファクト』のひとつ。スマホのごとく操作のできるデバイスだったのである。
「出てきよう言葉の意味はよう分からんばってん、食べ物げなんは分かったけんダメ元で注文してみたとです」
「そしたら俺が来た、と。どういう仕組みなんだ……。支払いは?」
「その上んとこ」
「SIMカードの入るべき場所に貯金箱みたいな穴が」
「そこに銀貨が入る」
「アナログ世代にやさしい」
 俺も男。超古代文明の遺物なんて設定は大好物だが「出前を注文できるだけの石スマホ」なんて一体誰がどういう意図で作ったのかさっぱり分からない。そういうものとして受け入れるしかあるまい。
「異世界転生ってこんなお手軽なものだったのか……。いや異世界転移か?」
 考えてる間にもシエルさんの箸は進み――箸の使い方は教えたらすぐにマスターした。食への執念恐るべし――、女性には多いであろう特盛をあっという間に平らげてしまった。
「ギュードン、うまかぁ……」
 恍惚とした表情で空を仰いでいる。よっぽど美味かったらしい。
 言葉が通じるのもおそらくアーティファクトの効果だ。訛りもきちんと標準語から逆算してくれる無駄な高性能ぶりである。
「えっと、いかがでした?」
 俺の声掛けに、騎士様はハッと我に返った。
「ちょ、ちょい待ち」
 俺に背中を向け、咳払いすること数度。発声練習らしき声出しをすること数度。ほっぺたについた米粒を取り、髪を整えてからやっと振り返った彼女はキラキラとしたオーラをまとっていた。
「ええ。なかなかに美味でした。なるほど、君は出前人足なのですね。こんな僻地までご苦労でした。世に不可欠な仕事ですからこれからも励んでください」
 今さら体裁を気にされましても。
「『今さら体裁を気にされましても』と言いたげな目で見るのはやめてください」
 バレた。そんなに顔に出ていただろうか。
「出ています」
「出てましたか」
 図星なのも顔に出たらしい俺に、シエルさんは恥ずかしさと不満の入り混じったじっとりした目を向けてくる。
「我がターコイズ家には目は口ほどに物を言うという教えがあってですね」
「あ、それ日本にもありますね」
「近いもので目は心の鏡という……」
「それもあります」
「以心」
「伝心」
 おそらくだが、近い意味の慣用句に翻訳されて聞こえているのだろう。アーティファクトの便利さが留まるところを知らない。
 シエルさんの気持ちに配慮する機能も付けてくれるともっとありがたかった。
「威厳……騎士の威厳が……」
 家伝の言葉で説諭しようとしたらしいシエルさんはちょっと凹んだ顔してるけども。
「まあまあ、衣食足りて礼節を知るって言いますし」
「また我が家の教えとかぶっているのはともかく、気遣いには感謝します」
 ふてくされていても仕方ないと切り替えたか、シエルさんはずっと気になっていたらしい俺の後ろを指差した。
「それにしても最近の出前は進んでいるのですね。よもや何もない草原に鉄扉が現れるとは」
「ああ、マンションのドアですね」
「あの霧の中を通って届けに来たのです?」
「霧?」
 霧など見た覚えはない。振り返ってみるが、開けたままのドアの向こうには東京の煤けた町並みが広がっている。こうして見比べると空の色が全然違っていて驚く。
 東京には、いや、おそらくもう地球のどこにもこれほど澄んだ空は残っていまい。なんの根拠もないけれど、ここは地球ではない、どこか全く別の天体だと俺の奥底に眠る原初の記憶みたいなものが叫んでいる。
 ためしにドアの後ろに回り込んでみると、ドアはただの鉄枠でしかなくシエルさんが首を傾げているのが見えるだけだった。だがシエルさんにはドアの中が霧に満たされているように見えるらしい。
「なんとも奇っ怪ですね。どういう仕組みに……」
 シエルさんがドアに近寄ってまじまじと見つめている。篭手をつけた左手をそっと霧の中に差し込んだ途端、彼女の顔から血の気が引いた。
「ッッッ!?」
 弾かれるように引き抜く。まさか霧の中に何か潜んでいるのか。
「ど、どうしました? 痛いんですか!?」
「い、痛いとかじゃないけど! ぞわわんぞくっとした!」
「ぞわわんぞくっと!?」
「例えるなら、大ナメクジが慈愛を込めて指の一本一本にねっとりとキスしてきたような……」
 さっきの巨大ナメクジが手にまとわりついて。
 熱烈な愛を込めて指を一本ずつじゅるっじゅるっじゅるっ。
「ひいいいいいい!!」
「ひいいいいいい!!」
 思わず叫んだ。シエルさんも自分の出した例えで叫んだ。
「き、君は本当にあんなところを通ってきたの!? そういう性癖ですか!? ドリアードの娼館を紹介してあげましょうか!?」
「違いますよ!! 俺は普通に……待って、ドリアードの娼館?」
 ドリアードはソシャゲで聞いたことがある。植物人間みたいな伝説上の生き物でお花系美少女キャラとして描かれる事が多い。それと全く同じではないだろうが、アーティファクトがそう翻訳したからにはおおむね間違っていないのだろう。
「花娘の蜜がしたたるぬるぬる触腕で全身をマッサージしてもらえるそうですよ。騎士団にも密かに通う者がいるとかいないとか」
「どうしよう、ちょっと気になる」
「や、やっぱり変態か君は! けだもの! 淫獣!!」
「くそっ、否定できなくなってきた!」
「ま、まさかさっきのギュードンにも妙な薬など入れていませんよね!? 婦女子を欲情させ手篭めにする類の! そういえばさっきから体が熱いような……あ、あっつ! あっつ!! あぁん!!」
「それガチで職務規定と法律に引っかかるんで無いです」
 無いです。
「そ、そうですか。疑ってすみません」
「さっきから体がなんですって?」
「ごめんなさい許してください」
 閑話休題。
「あの霧はたぶん、こっちの世界から俺の世界に出ていかないためのプロテクトみたいなものでしょうね」
「扉である以上は開けないわけにはいかぬ。開けても通してはならぬとなれば不快感を与えよう、と。なかなか考えられていますね」
「いっても霧なんで、押し通れないことはないかもですが」
「やめておきます。心か性癖のどちらかが絶対壊れる……」
「無理ですか」
「無理無理無理無理無理」
 いくら騎士様でもナメクジに全身じゅるじゅるされるのは無理らしい。しかしどうしたものか。得体のしれない世界の騎士とはいえ、遭難して困っているのだからいったん東京に連れ帰ることも考えていたのだが。そうもいかないようだ。
「シエルさんはこれからどうするんです?」
「仲間のもとへ帰ります。急げば明日には合流できるでしょう」
「また行き倒れるんじゃ……」
「お腹いっぱいだから大丈夫です」
「いや、また空くでしょ」
「空いてないと思えば空かないので」
「どうやってここまで歩いてきたかはよく分かりました」
 どうやら止めても無駄なようだ。騎士は食わねど高楊枝。立ち上がって装備を整えている。
 そうだ、とシエルさんは装備を整える手を止めた。
「よければ君も来ませんか」
「俺も?」
「今回の任務は魔物撃退。私が連れ去られる騒動こそありましたが、任務自体は全員無事の大成功です。王都に帰れば君にも勲功が認められるでしょう」
「いや、俺はただ出前しただけで」
「君がいなくては全員生還は達成できなかったのですから当然の権利です」
「そうは言われてもなぁ。帰りのドアはここにしかないし……」
「国で報奨を受け取ってから騎竜で戻ってくればよいでしょう」
 なるほど、それは一理ある。とはいえ数日はかかるに違いない。
 それまでドアが消えない保証はないし、何よりも……。
「ソシャゲのログボが切れるのでやめときます」
「そしゃげ? ろぐぼ?」
 さしものアーティファクトにもテザリング機能はないらしく、こっちに来てからスマホはずっと圏外だ。これでは日課のログインができない。
 今日まで2000日以上続けてきたソシャゲのログインだけは絶対切らすわけにいかないのだ。六年の重みがそこにある。
 シエルさんも俺の真剣な眼差しで分かってくれただろう。何か分かりませんが大事なことなら仕方ありませんね、と肩をすくめた。
「いざとなればまた君に出前を頼むとしましょう」
「こっちとしても仕事があるのはありがたいです」
「では、私は行きます。今は何も礼ができませんが、せめて恩人の名を教えてくれませんか」
「仁則です。手前仁則」
「ふぃろのり?」
「ひとのり!」
「ふぃろろり!」
「そうか、翻訳しても俺の名前はそのままなんだ」
 シエルはフランス語でたしか『空』。ターコイズは宝石だ。シエル・ターコイズなんて異世界人にしては分かりやすい名前だなーと思ったけれど、おそらく現地語で『空』という意味の名をしているだけで本当は別の言葉なのだろう。何かの漫画でホリィ(聖なる)という女性が日本では聖子さんと呼ばれていたが、アーティファクトにそういう機能もついているに違いない。
 一方俺はというと。花道くんとか翼くんならよかったところ、手前仁則を訳す言葉がなく音がそのまま伝わってしまったようだ。異世界人に発音できなくても無理はない。
 ならば。
「ジンソク。俺はジンソクとも呼ばれていました」
「ジンソク。デマエ・ジンソク。このシエル・ターコイズ、必ずや帰還して君の功績に報います」
「はい、お気をつけて」
 力強く歩き出すシエルさん。それはさっきまで牛丼を頬張っていたのがウソのような威厳ある立ち姿だった。
「毎度ありがとうございました!」

    ◆◆◆

「……夢?」
 シエルさんを見送り、ドアをくぐって東京に戻ってきて思わず口に出た。草原より蒸し暑く排ガス臭い空気に、煤けた青い空。立ち並ぶ灰色のコンクリート建築。俺はずっとこの東京にいて、暑さと疲労で幻覚でも見たんじゃないか。そんな気持ちが湧いてくる。
「いや、でも確かにこの604号室、に……」
 無い。
 俺の背後には603号室と605号室の中間にあたる外壁と同じベージュ色の壁。
 日本の建築は4(死)と9(苦)を避けて4号室や9号室を設けないことも多い。その慣習に則った風景がそこにあった。
「そんな、俺はたしかに!」
 スマホを開いて注文履歴を確認する。あるはずだ。今日の配達の一番最後、このマンションの604号室へ牛丼特盛を一人前。
「無い、無い!」
 そんな注文は履歴のどこにもなかった。
「これもアーティファクトの力なのか。いや、本当にそんなものあったのか……?」
 夢か現か幻か。俺は呆然と空を見上げることしかできなかった。

 そして、翌週。
「毎度ありがとうございましたー」
 俺はいつもどおりに配達を済ませ、一軒家を後にした。
「先週だいぶ休んじゃったから今日は稼がないと」
 休んだ原因は、言うまでもなく先週の出来事だ。
 初めは大いに混乱した。あの生々しく明確な記憶が夢のはずがない。抜けるような青空、草の香りが混ざった涼やかな風、そして俺が渡した牛丼を心の底からうまそうに食べる白銀の女騎士。全て現実のはずなのに、どこにもそんな痕跡がないのだから。
 しかし冷静になって気づいた。
 マンションにあるはずのない部屋があって、開けたら腹ペコの女騎士がいて、石スマホで注文された牛丼を渡して帰ってきた?
 そんなことが現実にあるわけない。
「まさに夢って感じだよなー。脈絡のなさが特に」
 とても仕事どころでなく2、3日休んでしまったが、久々によい休息になった。今週からまた自転車を漕ぐ毎日だ。
「次はーっと。……お!?」
 アプリを見ていて大きい声が出た。この仕事の最大の楽しみにして、お目にかかれるかは運次第とも言われるあのシステム。
「初めての!!! チップだ!!!!!」
 注文した料理の代金や配達手数料とは別に、配達員個人への心付けとしてお金を送ることができるシステム。それがチップだ。
 時には気前のいい人が1万円とかくれることもあると聞く。配達員にとっては貴重な収入源かつモチベーションになり、サービス意識が高まって客も助かる。Win-Winのシステムといえるだろう。
「俺の届け先、なぜかたまたま機嫌が悪かったりいかにも貧乏だったりでチップなんかもらえたことないんだよなー。千円かな?2千円かな?それともまさか1万円……」
『530,000円』
「530円かー。牛丼でも食うか」
 少ないと文句を言ってはいけない。俺の配達を評価してくれたお客様が送ってくれた大事なお金なのだから。感謝の心で受け取らねば。
「てかなんで金額に小数点なんかついてるんだ? 見づらくない?」
『530,000円』
「……違うこれ小数点じゃねえ!!」
 いち、じゅう、ひゃく、せん。
「53万円!?」
 チップにはメッセージをつけられる機能がある。このトンデモチップにも一言が添えられていた。
『おかげで仲間と合流できました』
 仲間。合流。
 一見意味不明なメッセージ。出前のおかげで仲間と合流できるってどういう状況だろと普通なら思う。けれど、俺はその意味を知っている。
 仲間とはぐれて行き倒れ、俺が届けた飯で力を取り戻した女騎士。
「助かったんだ、シエルさん!」
 思わず天を仰ぐ。あの世界とは比べるべくもないがいつもより少しだけ澄んだ東京の青空に、俺は思わず拳を突き上げた。
「夢じゃ、なかった……!」

 これが俺とシエルさんの出会い。
 次の物語は、この一週間後――。


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