見出し画像

広島カープの灰山選手を知っていますか?

今年もプロ野球のセパ交流戦が始まった。
今日5月28日は福岡ドームで福岡ソフトバンクホークスと広島東洋カープとの一戦を見てきた。カープのエース森下が投げ、ホークスは育成出身の渡邉捕手が初ヒット初ホームランをやってのけるなど大活躍の末、11-1でホークスが大勝した。

私のルーツは広島にある。
父親が広島市袋町⇒廿日市で育っている。
小さいころからカープについて聞かされてきたので野球ファンとしての入り口は広島カープだ。
とはいえ、自身は福岡生まれ福岡育ちなのでカープはもとより、古くは西鉄、太平洋クラブ、クラウンライター、そしてホークスのファンである…といえば年代を自爆するようなものだが、まあいい。

散々聞かされた父親の廿日市時代の話は、被爆後の戦争復興の旗印に市民球団を設立しようという樽募金が回ってきたということと、近所にカープの選手が住んでいたということに尽きる。

その選手については「灰山選手」「背番号40」「廿日市」という情報だけしかないのだが、父が亡くなって以降、広島カープの試合に触れるたびに灰山選手の話を思い出していた。最初は本当にいたのかどうかもわからないわけで、ネット時代になって検索を掛けたらヒットして実在の人物であることが分かって感激した。

そして、ここ数年の間に更に詳しい人物評伝が書き加えられていて、さきほど久しぶりに検索を掛けてみて再び驚いた。

灰山元治さん(1987年に75歳没)
広島県佐伯郡廿日市町(現廿日市市)出身、広島商業から慶應義塾大学に進んだ。1931年の春選抜大会ではエース番号1を背負い4番を打ち主将として大会史上初のノーヒットノーランを達成するなどして優勝し春夏の連覇の偉業となったがこれまた大会史上初で、元祖エースで4番といわれる選手だった。大学卒業後はプロ野球ライオン軍に2年間所属したが、広商時代の華々しい活躍とは裏腹に少し寂しい成績だったという記録がある。その後広島カープの創設時に「コーチ」として腕を買われ入団…

え?コーチ?しかも2軍コーチという記録がある。灰山さんは選手ではなくコーチだった。

というわけで、カープ設立当時の話を知ってる方なら知っている、或いは、甲子園好きで古い時代の中等学校野球優勝大会(現、全国高校野球選手権大会=甲子園)の記録などに興味がある方なら知っているかもしれない、というマニアックなレベルだが、背番号#40 灰山元治コーチの確認ができたので、忘れないうちにしたためておこうとnoteを取り急ぎ書いている。

それと、この灰山さんが気になっていたのにはもう一つ理由がある。
私の出発点がカープであることは前述したが、カープの韋駄天、33試合連続ヒットはいまだに破られていない高橋慶彦さんの大ファンだった。
活躍中の彼の背番号は#2だったが、実は入団当初が#40だったのはかなりのコアなファンでないと知らないだろう事実。
そして、灰山さんが大学卒業後に所属していたプロ野球ライオン軍では背番号#2をつけていたのだった。
#40と#2は高橋慶彦さんと灰山さんが偶然にも同じ背番号に関わっていたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?