デス・ロードへの怒り('15)

'15年にmixiにあげていた文章で、気分を害する恐れのある超・主観的な文章です。
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他人を傷つける可能性を知りつつも敢えて書いてしまいますが、オレは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)は旧EVAに対する新劇ヱヴァみたいなもんだと思っています。もちろん良い意味ではなくて、広く世人に受け入られるために本質を捨て、内容をデチューンした新作だってことですね。
今まで散々「見ない」「見てない」と嘘ついたのは謝りますが、その時はもう何も意見したくなかったもんで、それはどうかご容赦ください。でも今、フッと書く気になったものですから、思うところをまとめておこうと思います。

『怒りのデス・ロード』。『マッドマックス サンダードーム』(1985)でも同じことを思ったんですが、『マッドマックス』(1979)、『マッドマックス2』(1982)とかを見てて、こっちが「ギリギリでマンガみたいにならないのがカッコいいなあ!」と感じ入ってるトコをねえ、ジョージ・ミラーが裏切りまくってくれるわけですよ。イモータン・ジョーやウォー・ボーイズ、改造車両の軍団やシタデル城塞のビジュアルの間抜けさには完全に力が抜けてしまいました。――要するに、1、2作目の時はカネがないからマンガみたくなってなかっただけで、ミラーの目指すところは結局、マンガ・アニメの世界であったと。これにはねえ、『狂い咲きサンダーロード』(1980)の最後、予算と技術さえ間に合えば、仁さんはメタルのサイボーグになって大暴れするはずだったんだよ…と聞いたときと同じくらいズッコケてしまいましたね。あっオレちょっとリスりすぎてた! 一方的に妄想して、リスりすぎてた! ジョージ・ミラーと石井聰互。
まァそれでも『狂い咲き~』という作品自体は最高に好きなんでいいんですが、『怒りのデス・ロード』はちょっと、オレには何もない。何もない寂しさしかないですね。『サンダードーム』よりは買えますが。トクベツ何もマッドであるとは思えず、コスプレビデオとしてしか消化できませんでした。『怒りのデス・ロード』を見て「まじでやばい、狂ってる」とか言っている奴は、ちょっと普段からわかりやすいものに囲まれていすぎると思いますよ。

気分のわるい文章を長々と、エライすんません。結局オレは『マッドマックス』と『2』が超・好きで崇拝してしまっているからこそ、当然アレを時代並みにアップデートした映画が見れるのだと勘違いしてしまって、結果としてはその期待は裏切られてしまったわけなんだけど、でも世間はその映画を「狂ってる!」と高く評価して…という、自分の感情に沿わない状況が続くのに苛立ってるだけですね。きっと。

『マッドマックス』シリーズが荒野の救世主サーガになるのはご存知のように『2』からなわけですが、その『2』の人間関係のサッパリした感じはねえ、今見ても本当に素晴らしいですよ。パッパガーロやジャイロ・キャプテンとマックスの関係性ですね。ことにパッパガーロ。彼の存在が『2』という映画を最高なものにしたと思っています。

考えてみれば1作目のマックスってのもほとんど別人ですし、『サンダードーム』と『怒りのデス・ロード』におけるマックスはああいう所帯じみた人間ですから、とどのつまり孤高のカリスマとしてマックスが輝いていたのは『2』という一つの映画の中だけであったわけです。
これからも世界中の童貞には、『2』のマックスを目指してほしいと思います。なんだそれは。

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