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まなび、まなびってなんだー

*まず最初に、様々な形で「学び」について考えたり取り組んでいる人へ、いいとかわるいとかみたいなこと言いたい記事ではないことをおことわりしておきます。

 私は「学び」という言葉がなんとなく苦手である。また、何か見聞きしたその場で「学びがありました」とは、私は口が裂けても言ってはいけないのである。万が一、言ってしまったら「お前はどんだけ学べたの?」と激しい自己ツッコミで数日寝込む羽目になるのだ。

 なんで「学び」なのか。なんで「学ぶこと」と言わないのか。いや、それでも私はその場で「学ぶことができました」などと言えないだろう。動詞を名詞化するときに生まれるある種の冷たさみたいなものが嫌いなのか、

 ああ、自己欺瞞が始まった!仕切り直し。

 そんな短時間ですることができるのは、未知のものを既知のものへ落とし込むことぐらいなのではないだろうか。自分の理解できる範囲のものに、そこで語られたことを(わからない部分は自己都合でなかば暴力的に)まとめ上げることぐらいなのではないだろうか。それはとても面白いことであり、とても楽しいことである。英語の発音を無理やりカタカナで書こうというイメージが近いのではないだろうか。空耳アワーである。これは自分の全能感を味わえる。もう世界の覇者の気分である。俺は今までただの音の羅列だった中に意味を見出したんだ!
 でも、たしかに努力はしたけれど、カタカナになった瞬間に落ちる情報はどうにかして救いたい。レンジでチンして美味しいものはありがたいが、自分で作ろうとしたとき往生するのだ。もどきでも結構おいしい、でも本物も知りたくなったらどうするのか?

 学ぶこととは、未知のものをわかろうとするための自己変革を伴うものだとおもう。見方や価値観や自分のあり方を変えないと、今の自分には存在することすら認められないものを掴めるようになるとか、対話できるようになるようなもので、それは非常に困難なことであり、その日のうちになんて短い時間のうちにできるような代物ではないと思う。
 今日のところはとりあえず「わかったふり」をしているだけである。多少チクっとしても自分を欺いて、その思考を寄生させて帰る。その思考に蝕まれていく自分をとりあえず見逃すのである。

 今日聞いたことは、わかったようなきもするけど、なんだかわからなくて気持ち悪いところもあって、そんな蛭のようななにかをを後頭部に飼うように暮らしていると、ある日わかるようになるかもしれない時限装置のようなものなのではないだろうか。そこでなんらかのスイッチが入ったので、一緒に自分も動き始めて時間の経過とともに完成する運動のようなものなのではないだろうか。あるいは、自分の世界では重要でなかったのでいつのまにか忘れ去られていくのかもしれない。

 働きかけの結果、どのような出力が期待されるとか、どれくらいの期間で「わかるようになる」とか、外から口出しされるくらいなら、すぐ収穫できる貝割れ大根になって食べられる方がマシな気がする。

 学びとは、振り返り続けることなのかもしれない。私はそれを「学び」と読んでしまった途端にホルマリン漬けの何かのように感じてしまう。
 というところで、若いならあえて振りむけギャバン。

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