自転車と私

 昨年末、自転車を買った。チャイルドシートがつけられる小径車である。
 自転車の荷台に子供を乗せるのは、自分の中で大変な抵抗があった。高いところに不安定なものを載せて二輪で走るなんて恐ろしかった。
 しかし生活環境がかわり、自転車の必要性を感じたため、子供達からも「夢の乗り物」として憧れの対象だった子供乗せ自転車を買う決心をした。

 電動アシスト付き自転車をレンタルで導入することも考えた。子供達もじきに自分の自転車に乗るだろうし、この先何年も乗らない気がしたので、自分のものにする必要を感じなかった。
 情報を収集していると、バッテリーを充電し忘れた時の悲劇などを聞き、この重いバッテリーを自転車置き場から(時には熟睡した我が子を抱えながら)持ち帰って、充電してまた取り付ける(時にはバッテリーを持ってくるのを忘れる)、という自分を想像したら、暗澹たる気持ちになった。
 油を差すとか、塗装ハゲを塗り直すとかいうメンテナンスは苦ではないが、バッテリー充電を要することに対する許せなさが自分の中で強かった。動力は人間だから自転車なのではないか?漕いでたら自分で再充電できないのか?おおよそそういうイメージである。
 だが、何よりも電動アシストのおかげで無理をして出かけて力尽きた自分の骨を拾う人はいるのか(いやない)という自問自答が決定打で、人力一馬力の自転車にした。運転手はひとりだけなのだ。

 今の私にとって自転車は便利な道具ではない。走っている最中はかまわない。停車したその時から「お荷物」になるのだ。徒歩より早く着いても、停める所探しに時間がかかっては意味がない。駐輪場はあるのか、止めるスペースは空いているのか、引き出しラックになっているのか、それなら上の段なのか下の段なのか。これらの心配事は、子供乗せ自転車になったとたんいきなり暴騰する。純粋に嵩張るし重い。スペースに入らない。無断駐輪監視員が忙しく働いている地域なので、勝手に停めてその場を離れてから気を揉むくらいなら自転車で出掛けたくない。それに私は道草が好きなのだ。自転車ですっ飛ばしていくと楽しみもすっ飛ばすことになるのだ。

 こうして、目的地に子供を送り届けるため、あるいは買い物をする時の運搬(買い過ぎを防ぐには有効である)のためには、愛すべきツールとなった。

 後になって気づくこともある。重いバッテリーはそれで子供を乗せても安定するという側面もあったのだ。また、子供達はいつでも自分で自転車を漕ぎたいわけでもない。坂道をあがる必要のあるところには行きたくないのである。かくして、平均斜度5%という坂道の含まれる習い事への道程を子供乗せ自転車で送迎することになった。後付けできる電動パーツはない。もう一台自転車を導入するのは非現実的だ。習い事をやめるか、自分の肉体を鍛えるか。変数を自分のみに絞るため後者を選んだ。

 肉体改造については別に書くことにして、乗り物に対するお荷物感は、自動車に対しても同様である。
 この問題は、環境依存である。今は都市部に住んでいるため、駐輪場、駐車場は有料があたりまえ、違反駐車監視員も意欲的に働いている。
 自分が生まれ育った場所では、無料の駐車場停め放題、向こうに見えているスーパーにも(遮蔽物が無いから見えている、だけではない近さ)自動車で移動する環境であった。もちろん移動手段の一時保管場所には困らない。
 この差が、乗っていない時の乗り物に対するうんざり感の正体なのだろう。便利なはずのものが自分に禍をもたらすのだ。実家の方なら、こんな苦労して車に乗らなくてもいい。しかし、ここだと苦労をすることになる。現在地と実家の違いを埋めるため、道具に振り回されるのを回避するために道具を使うのをやめて徒手空拳でやろうとする、この対処方法が私の個性のようである。


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