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【立ち読み】透明な境界

(中略) 

鳥の羽ばたきとせせらぎが聞こえる。まぶたの裏でも、ぼんやりとした光が、自分を包んでいる事がわかる。底のない安心感に身を任せ、蓮城珠華は思いまぶたを開けた。白いベットの上、部屋の充満する光は遠い記憶の中で眩く差し込む日の光より白い。家具を含めて白で統一されているせいで、まだ微睡の中にいるような気持ちになる。
 唯一と言っていいほど、色があるのは一方の壁の大半を占める窓だけだった。大きな窓には朝の澄んだ空と鳥の声が通り抜ける木々といった大自然が広がっている。珠華はいつもの習慣で風景に視線を滑らせ、右下のうっすらと発光している文字列に目を止めた。文字盤の数字が丸二つに変化するのと同時に部屋の中に機械的な呼び出し音が鳴った。
 七時だ。鳴り響くアラーム音を疎ましく思いながら起き上がり、足をベットから床につける。床が足に触れた瞬間、アラーム音が止まった。珠華は諦めの気持ちに背を押されて立ち上がり、朝の支度をするために窓に背を向けて、バスルームへの扉を開けた。
 ここは東京都内の病院だ。と言っても最近できた最新設備の詰め込まれた、近未来な病院。最初連れてこられた時は、意外と世の中の技術は進歩していたのだと世間の狭さを実感したものだ。
 最近は病院が一気に建てられているらしい。ちょうど入院する前、リビングで付けっぱなしになっていたテレビでニュースになっていた。病院建築ブームは健康志向の飛躍的な向上が要因と言われていたが、世間がそれも違うと気がつくのは遠くないのではないかと今入院している珠華は思う。
 この都賀私立病院はそのブームの前から富裕層向けの病院として建設されていたのだが、ブーム初期に完成し、意図せず病院建設ブームに健康のイメージを付け加えた。ここ以降完成した病院は急いで建設されたために即席もいいところで、ブーム中に建てられた病院の中で設備が最新のほぼ唯一の病院になった。そして、健康志向が強い富裕層向けのサービスを売りにしていた都賀病院は、国の要請でその方針を覆すことになる。ちょうどその時期、珠華はこの病院にやってきた。到底払えない金額の入院費をほぼ免除されて。

 毛先以外白くなった髪を寝癖がなくなるま丁寧に梳き、珠華はバスルームを抜け病室の扉から出る。朝食の前は検査に行かなくてはいけない。
廊下に人はほとんどいなかった。ロボットが食事の配膳に動き回り、時々人が横を通り過ぎる。
 人は看護師の服を着た者、そして患者の服を着た者。遠目ではどちらも白く、辛うじて患者が緑っぽく看護師が薄い水色の制服だ。
 珠華はまばらな人々に混じって看護師を連れて、年下の患者である都賀美流がやってくるのに気がついた。珠華がここに入院する理由になった一人だ。美流は髪がもう白く染まり、寝癖が直しきれておらず、以前の綺麗に染められたストレートな茶髪の面影さえもない。
 出会った頃の美流は年頃の中学生らしく身嗜みに気を使っていて、入院当初はいろいろなお手入れグッズが持ち込めないだの、お洒落ができないだのと愚痴を言っていた。最終的に健康的な食事だから太らなくていいだの、両親の目がない間にやってみたかったことをしようかだの、前向きに入院生活受け入れようとしていた。そんな当初のイメージの反面意外と真面目で、勉強を珠華に聞きにきたりしていた。無邪気さはあったが、幼いわけではない明るい良い子だ。
 美流は特に気にする様子もなく、無邪気な子供のように珠華に近付いてくる。
「あ、こんにちは!」
「こんにちは、美流ちゃん」
 珠華は二つ下な筈の幼い美流を優しい顔で迎えた。
「今日は元気そうですね! ……えっと……あ……」
 珠華は言葉の続きを笑顔で待つ。無駄だと思っても、とりあえず。その視線に晒されて、さらに焦る美流は戸惑った表情で目を泳がせる。
「アレ、あれ、あ! あの……えっと……」
「美流ちゃん、私の名前、珠華だよ」
 限界を悟り、珠華は努めて笑顔で自分の名前を教える。心の奥で芽生えた落胆は見ない振りをして。美流は一瞬呆然としたかと思うと、悪戯がバレた幼子のような顔をして涙を溜める。
「しゅ……しゅ……しゅか?」
 ついに半泣きになり、それでも笑顔になろうとする。少女の姿で幼子のように涙を流し、見慣れた珠華も不安を覚えた。
「……ははは……っう……ふ ふ」
 美流はだんだん耐えられないとでもいうように笑い声を漏らし、泣いたまま音量を上げていく。美流は助けを求めているかのように、珠華に手を伸ばしながら近づいてくる。手を取ろうとした時、美流についていた看護師が間に入り、穏やかな笑みのまま珠華に軽く頭を下げて美流を連れて行く。看護師の瞳の中には円形の青白く光る円盤が見えた。美流は抵抗もせず、珠華に手を伸ばしたまま部屋に消えた。美流を見送り、珠華は診察室に向かう。
 すれ違う人々は看護師と患者だけだ。看護師は愛想よく挨拶をしてくれるが、患者は自分に気がつかないのか見向きもしない。珠華もわざわざ話しかけるような事はしない。お互い様だからだ。いつ自分も道ゆく人がわからなくなるかわからない。
 そして薄い水色の服の人はアンドロイドだ。今珠華の横をすれ違い、自動車椅子に乗った茫然自失の患者に連れ添っている看護師もアンドロイドだ。できたばかりの病院で働く予定だった人々が、早々に機械に居場所が奪われるなんて思わなかっただろう。
 一方の患者はどこか遠いところを見たり、言葉にならない声を発していたり、まだ自我があっても支離滅裂な会話をしたり。そして、皆共通するのが髪と肌が白くなっていくことだ。色が抜けたように。そして完全に色が無くなると、皆似た動きをするようになる。同じ方向を見たり、同じ方向に歩き出したり。機械にプログラミングされたような似た動きをする。その頃には、もう病院内で会うことはないが、珠華がきたばかりの時は時々遭遇した。
 もうその姿に自分の未来を感じて憂鬱になることもなくなっている。もうすっかり慣れてしまったのだろうか。もし美流にその時が来ても、大往生した人間を見送る時の気持ちでいることができる気がする。それとも終わりの見えない闘病生活に諦めがついてしまったのか。それでも珠華はここにきて確実に心が軽くなっていくのを感じている。外にいる時より、ずっと。
 こっちには人間の看護師も医者もいない。まともな人間なんていない真っ白な世界。
 珠華は案外、この世界が好きなのかもしれないと思っている。


続きは本にて

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