電信柱ミステリー、あるいは犬はなぜマーキングをするか
その頃、町には5つのグループがあった。生まれも育ちも形も違うが住んでいるところが近いものたちが自然と集まってできたもので、いつの間にかそれぞれがそれぞれの中で強い結びつきを持つようになった。そうなるとどうしても他のグループは敵になる。どこまでを自分たちの縄張りにするかを巡る抗争(吠えあい)は長くそして苛烈を極めたが、結局は第2公園が5つのテリトリーの境目になった。正確に言えば、南側の入口の横にある電信柱が全ての勢力図が接する点になり、俺たちはそこに必ずマーキングをして、お互いに領土を侵食しないことを日々確認し合うことにした。
犬のマーキングには様々な情報が含まれている。さっき言った(俺たちはお前たちのところには入らない)の他に(ここまで来る経路はこれだった)(どこそこでマーキングをした)(途中で誰それにあった)から(朝は何を食べた)(今日は少し足が重い)(帰ったら昼寝をする)までが一嗅ぎでわかる。だから、常に鼻面を突き合わせなくても他のグループの犬たちがどういう状態であるかもわかるし、やつらがどんなところに住んでいて今そこがどんな感じかもわかる。それをひとしきり把握した後で俺もマーキングをする。
他のグループばかりでなく、俺のいる川沿いグループの他の面子(黒、マータ、教授(飼い主のつけた名前はフルフル)そしてモッチ)ももちろんここで情報を共有する。(おはようございます、夕方にも来ます)(今日は20キロ走る!)(暑いので水を飲むのを忘れないように)(坊ちゃんがテーブルから落としたソーセージを食べたら美味しかったヨー)などだ。抗争(吠えあい)も終わった今は大事な情報はほとんどない。ざっとお互いの感じを嗅ぎ取って済ませるか、ただマーキングだけして嗅ぐこともしない日々が続いていた。
異変に気づいたのは黒だった。その日、俺たち5匹はたまたま散歩の途中で一緒になり、飼い主たちが立ち話をしている間にいつものようにマーキングをした。話が長くなりそうなので俺たちはぼんやりしていた。他にすることがなくて電信柱を嗅いでいた黒の毛が突然総毛だった。
「どうした?」
「いや、わからない。こんなのは初めてだ。」
「何か知らない情報があるかね?」
「俺が嗅いでやろう!」
マータがぎゅっと動いて電信柱を嗅いだと思ったら大きな声で吠え始めた。
「なんだこりゃ!」
「どうしたんだ?」
「俺にはわからん!」
「とりあえず静かにするんだ、マータ。黒、説明してくれ。」
「教授、普通、マーキングは「何か」を言っているだろ? どこに行ったとか、何を食べたとか。」
「そうだ。」
「それがわからないんだ。」
「わからない?」
「あ、あっちから人が来るヨー。」
「ちょっと嗅いでみてくれ。」
「ふむ…。」
教授は電信柱によちよちと近づいた。
「もう少し上だ。」
「…なるほど。」
「何か分かったか?」
「いや、こんなことは初めてだ。」
「おい! 教授! これはなんだ!」
「静かに、マータ。」
「ワー、あっちからも人が来るヨー。」
俺たち(モッチ以外)が固唾を飲んで見守っていると、天を仰ぎながらポツリと教授は呟いた。
「「何か」を伝えようとしているが、俺たちが知らない「何か」だ。」
「どういうことだ?」
「オクト、一回嗅いでみろ」
俺は電信柱を嗅いでみた。雑多な情報の中にそれはあった。最初に来たのはまるで雑音だった。何を言っているかわからない。ただ、それは確かに「何か」を伝えようとしていた。「何か」の感情が乗っていた。しかし、それが喜びなのか悲しみなのか、不安なのか嘲なのかわからない。俺にわかるのはただただそれが不快だということだった。
「うう、なんだこりゃ。」
「オクトも嗅いだことはないか?」
「ない。」
「まさか、何かの化学物質じゃないか?」
「なにっ! じゃ、俺たちは死ぬのか!」
「マータ、うるさい」
「「もう、マーちゃん、静かにして!」」
「これを嗅いで死ぬならお前より先に黒が死んでるはずだ。」
「確かに!」
「マータのお母さんはおやつにどら焼きを食べたネー。」
「モッチ、静かに。」
「全くわからん。とにかく、気をつけよう。何かあればまたここで情報を共有しよう。」
俺たちはそう言って別れた。
次の日の朝の散歩で俺はいっさんに電信柱に行った。そこには新しい「何か」と共に、他のグループたちの狼狽があった。(なんだこれは)(わからん、田んぼのやつらか?)(いや、そもそもこれは犬か?)(川沿いのやつらがこの前で長く話していたぞ)(怖い)(山沿いはこれは何も知らない)(こちらもなにもわからない(これは教授だ、早いな))(朝は牛乳を飲んだヨー(モッチ、静かに))(じゃあ、団地のやつらか?)(こちら団地。この匂いをつけた組がすぐに申し出ないと俺たちへの宣戦布告とみなす)。
どうしたものか? 俺は呆然としたがお母さんすぐに帰ろうとしている。でも、何かを残さなければならないだろう。しばらく抵抗していると運良く黒が飼い主と現れた。
「黒、どうしよう?」
黒は黙って電信柱を嗅いでいる。
「もしかしたら、他の電信柱に「何か」があるかも知れない。」
「そうだな。それを探せば、「何か」を残したやつが誰かわかるかも知れない。」
「道中には?」
「無かった。」
黒はマーキングをした。その上から俺もマーキングをした。
(こちら、川沿い。俺たちではない。俺たちはこちらのテリトリーでこの「何か」を探す。あれば報告する)
二人でしばらく電信柱を眺めた。いつもと変わらない風景だ。
「ほんとうに、なんなんだ?」
黒が呟いた。
それから「何か」探しが始まった。俺たちは隈なくテリトリーの電信柱を嗅いで回った。いろいろな生き物のメッセージがあるが、「何か」はいない。しかし、第2公園の電柱には常にやつが「何か」を新しく残している。「何か」は日々少しずつ変わっている。(どうすればいいんだ)(なんだ、これはなんだ)(誰か意味を教えてくれ)(それがわかるくらいならこんな必死になっちゃいない)(こちら山沿い。「何か」を見たとの情報あり。追って連絡する)(「何か」は「見る」ことができるのか?)(俺は今日は20km走ったが見つけられなかった!)(この「何か」は常にこの高さにある)(じゃあ、犬なのか?)(犬なら必ずなにを言っているかわかるはずだ。俺たちが今なにを言っているかわかるのと同じだ)。
ひと月ほど経つと、5つのテリトリーの全員が「何か」を探していた。一つのことを達成するためにその町みんなで何かをしているというのは初めてだった。電信柱だけでなく塀や溝、草むらも探すことにした。鼻がおかしくなりそうなのを我慢しながら毎日方々を嗅いで回った。(こちら田んぼ。川沿いの教授に聞く。「何か」は犬か?)(こちら教授。わからない。生き物であるかも見当がつかない。また連絡する)(こちら山沿い。「何か」は人間ではないか?)(こちら団地。人間ではない。飼い主の股間を匂うとわかるぞ)(あんまりすると怒られるからやめた方がいいヨー(モッチ静かに))(「何か」は深夜に来る。俺たちが散歩をしていない時間帯だ。人間も活動していない、他の動物も寝ている)(なんだか、「何か」を嗅がないと落ち着かなくなってきちゃった)(休みなさい)(夜行性のやつら、例えば狸では?)(そういうのは糞もあれば毛もあってたどっていける。こいつはまるでここに直接空から来てまた空に帰るみたいだ)(鳥?)(鳥はマーキングしないぞ?)(こちら団地沿い。本日田んぼと合同で調査をした。成果なし)(ありがとう!)(お疲れ様)(山沿いより新たな情報あり、深夜に電信柱に光がある)(それは電灯じゃなく?)(違うみたい)(じゃあ、なんだ、なんなんだ?)
「何か」との別れは突然訪れた。俺たちがひっきりなしにマーキングするものだから電信柱が腐ってある晩に倒れたのだ。怪我人はなかったが一帯は停電し飼い主たちは1箇所に集められて無茶苦茶に怒られたそうだ。それから犬が公園に近づくのは禁止された。そして「何か」も消えた。俺たちはまたそれぞれのグループに戻ったが、「何か」が失われることで俺たちの中の何かも失われてしまった。黒と俺はそれでもしばらく探していたが、いつの間にかそれもやめにしてしまった。
今はもうその話を覚えているものもいない。だから、俺はこのマーキングにこの話を残す。いいか、必ず、必ず「何か」を見つけてくれ。頼む。
「「はい、オクト、上手におしっこできたねー。」」
そう言うと飼い主はペットボトルの水を取り出した。だめだ、それで俺のマーキングを流してはダメだ。しかし、もう俺にはなす術がない。
leave/残る
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?