高雅で感傷的なワルツ

 夜になると店の前にぼんやりとした灯りがついた。知らなければ通り過ぎてしまうほどの明るさだったが、近づいてみると確かにガラス戸の「カフエー へいあん」の文字を読むことができた。その扉を開けると暗い廊下の先にまた扉があるのが見える。そこを開けると部屋の天井から急に降りかかるキラキラとした光に目が眩むが、慣れてみるとやっぱりそれほど明るくない、しかし、奥が見えない上に壁一面がガラス張りだったから、実際よりもずっと広く感じられた。

 奥の方にぼんやりと見える黒い塊は、こういう店には似つかわしくないほどの立派なグランドピアノで、時間になるとピアニストが流行歌を弾き始める。すると、まるで壁の中から出てきたように女給たちが音もなく現れて男たちと踊り始める。そしてたいていのカップルはそのまま2階へと上がっていくのだった。

 戦争が終わるまではこの界隈には8軒の店があり、その中でも瑗子の店は特に繁盛していた。店に酒と女と食べ物が耐える日はなく、毎晩がお祭り騒ぎだった。口さがない人々は、必要とあれば瑗子が女を格安で身請けさせるから将校連が集まるのだろうと噂していた。実際、息子の健一が召集される時には、内地勤務になるように配属に口の利ける将校に女を「払い下げ」たことがあった。それで健一は兵站を管理する部署に入ったものの、なぜか、自分から志願して戦地へ赴いてしまい、今は行方知れずになっていた。体があまり強くない健一がラバウルから帰って来るとは到底思われなかった。今では店のグランドピアノだけが、ピアニストになろうとしていた健一を偲ぶものになっていた。

 戦後、瑗子は店が続くように奔走したが、GHQが公娼を廃止するのはどうしようもなかった。仕方なしに他と同じようにカフェーに「転業」し、女たちを「女給」にし、料理人も一応入れて体裁を整えた。健一のピアノを引っ張り出してピアニストを雇うことまでした。しかし、お社の近くにあってそもそも寂しく静かなこの辺りまでわざわざ中心部の「特飲街」を通り越して来る物好きは少なかった。戦中の賑やかさのしっぺ返しを受けたと言われても仕方がなかった。女たちの数も一人、二人と減っていた。瑗子も暗い店の中でぼんやりしている時間が増えた。ピアニストも飲んだくれていて店に出てこないことも多くなった。

  そんな折、健一が復員してきた。瑗子に訪れたのは喜びより恐怖だった。この子はこんな子だったろうか? 風土病を患いボロボロになった健一は、ふっくらとしていかにも花街のぼんぼんという感じが全くなくなってしまっていた。離れで寝込んでいる間にずっとうなされ、よだれと譫言を垂れ流していた。必死の看病の甲斐あって、秋には少しの間なら部屋を出ることができるようになった。

 健一がピアノを弾きたいと言うので、瑗子は店に健一を入れた。
「調律が…」
 鍵盤に触れた健一がつぶやいて、それから何か弾き始めた。瑗子は健一が弾く曲が分かったことはなかったが、今弾いている曲は全く好きになれなかった。何か頭のおかしい曲のように思われた。
 いつの間にか、店のピアニストが健一の後ろにぼんやりと立っていた。お久しぶり、と嫌味の一つでも言ってやろうと思ったが、ピアニストの青ざめた表情を見て何も言えなくなってしまった。

「ラヴェルですね」
 健一が弾き終わるとピアニストが言った。
「そうです」
 健一は振り返らずに言った。
「『高雅で感傷的なワルツ』はラヴェルの最高傑作の一つです」
「ええ。全く異論ありません」
 ピアニストはつぶやくように言った。
「あなたはどちらに行かれたのですか?」
「僕はラバウルです」
「そうですか。僕はニューギニアです」
「ほう」
 健一は肩越しにピアニストを見た。
「何かお弾きになりますか?」
「僕は…僕はもう飲んでしまったから…」
 そう言いながら、ピアニストは鍵盤を触った。先ほどとは違う、しかし同じように心をざわつかせる曲が流れ始めた。単なる流行歌弾きにしてはやるものだな、と瑗子は思った。

「ああ…ああ…」
 健一がうずくまって頭を抱えている。
「どうしたの?」
「これが機関銃の音だよ」
「その曲やめて」
「いや、弾いてください、弾いてください」
 ピアニストは何かに憑かれたように弾き続けている。すると、どこからともなく女たちが現れて踊り始めた。さまざまに変化していく曲に合わせて体を曲げ、まるで機械人形のように動くその中に、いつの間にか健一がいた。その動きは人間のそれではなかった。
「やめて!」
 瑗子が輪の中に入って抱き上げた時には健一はこと切れていた。

waltz/ワルツ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?