11月16日朝国境の街で

 11月ともなるとこの地方の朝は厳しく冷え込む。日の光が地平線を照らし始めても吐く息が突き刺すように白くなるのはどうしようもない。それでもイグナツは店を開けるために毎朝暗い中を歩く。祖父も父も同じ時間に同じ道を歩いてきた。遠くからドン、ドンと聞こえるのは、国境の向こうの空爆の音で、そのミサイルが落ちるリズムがたまに歩調と合うとそれだけで嫌な気分になるから、イグナツはその度に速足で歩いた。
 店まで来るとウィンドウに誰か寄りかかっている。それだけでも肝が冷えたが、近づいてみてイグナツは総毛だった。10歳にならないくらいの子どもがいたからだ。慌てて店の中に入った。子どもの口から白い息が出るのは目の端に見えたから、生きているということだけはわかった。
 戦火を逃れてきた孤児がパン屋に食と温もりを求めてやって来るというのは祖父からも父からも聞いていた。それが、電気釜で焼いたパンをカウンターのガラスケースに入れて売るような現代のパン屋の自分にも降りかかってくるとは思わなかった。
 イグナツは震える体を扉に押し付けた。パンをやることには何の疑いも抱かなかった、というかそれははっきりと決まったことだった。問題はどうやってやるかだった。ただ渡せばいいのか、それとも何か言葉をかけるべきなのか。昨日のパンでいいのだろうか、腹を壊したらどうしたらいいのか。どうしたらいいのだろうか。
 パン粉にするために取っておいた昨日のパンを手に取ってイグナツは扉に向かったが、思い直してパンを袋に入れてからから扉を開けた。「おい」と言った声がかすれていた。
「おい、これ」
 子どもはぼんやりとこちらを見ると、手を伸ばしてパンを受け取った。
「入れ」
 顎をしゃくると子どもはとぼとぼ店の中に入った。
「座んな」
 おしゃべりをしに来る客のための椅子に子どもを座らせた。子どもはパンをちぎって食べ始めた。機械的にパンをちぎって口に運ぶのをイグナツはしばらく眺めていたが、慌てて湯を沸かしに裏へ入った。今日のパンを作らなければいけない。
 湯が沸くまでにいつもするように、粉を台の上にあけて水を加えこね始めた。まだ頭の中で声がぐるぐるする。本当にあの子どもは孤児だろうか? いや、こんな時間に子どもが一人でいるはずはない、あの子は孤児だろう。本当に? 何か盗みに来たのでは? そんなことを思って恥ずかしくないのか? お前には人の心が無いのか?
 ポットがしゅんしゅん言う音にしばらく気がつかなかった。慌てて火を止めて茶を作った。朝、自分以外の誰かにも茶を作るのは初めてだった。
「飲め」
 子どもはパンを膝に置いてマグを受け取った。それを口に運ぶ動作もやはり機械的だった。イグナツも茶をすすった。
「あっちから来たのか?」
 子どもはイグナツが指差す方向を見てうなづいた。やはり隣の国からだ。親はどうした、と聞こうとしてイグナツは口ごもった。そういうことは聞いてはいけないのではないか。じゃあ、何を聞けばいいのか。何も聞かないのも良くないのではないか。ミサイルの落ちる音がやけに近くに聞こえる気がする。神経が過敏になって自分が茶をすする音にもびくびくする。
 とにかく、役場に連れて行って預けよう。その間店はどうする。そんなこと言ってる場合か。役場がで全然埒が明かなかったら? 一日くらいパンがなくったって誰も文句は言わないだろう。しかし、しかし、しかし。しかし、どこからこの頭の中の声は聞こえるのか。俺の声でもあるようだし、全然知らない声でもあるようだ。
「あの…」
 子どもがカウンターの向こうからマグを差し出している。イグナツは一瞬何が起こっているかわからなくて呆然とした。それから慌ててポットに湯を足した。
「2煎目だからな」
 そう言ってマグに茶を注いだ。
「ありがとう」
 どうして2煎目だからなどと言ったのだろう。そればかりが頭の中をぐるぐるする。自分のマグにも茶を入れ直した。子どもの目を見られなかった。どうしてこんなにうまくできないんだろう。こんな感じのまま、俺は死んでいくのだろうか。
 ふと見ると子どもの頬が赤くなってきている。良かった、温かくなったから人心地着いたのだろう。イグナツは安心した。夜が明けたらすぐに役場に連れて行ってやろう。もう少しパンを持たせてやってもいい。今度は焼き立てをやろう。
 その時、空を引き裂くような高い音が聞こえた。子どもが床に突っ伏した。イグナツ肩をすくめて天井を見上げた。ミサイルが爆発し店は木っ端みじんになった。空爆から逸れた流れ弾だった。

 がれきの下から出てきた男と子どもの手にはマグが握られていた。

baker/パン屋

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