その瞬間

「ねえ、私、間違ってますか?」
 カウンターの向こうでさめざめと泣く、その質問への答えは、どっちにしろ間違いである。つまり、「はい」も「いいえ」も同じように刺されるという意味だ。
「そうですね…」
 そう言いながら考える。なんて答えたらいい、なんて答えたらいい、なんて答えたらいい。
 肩越しに見えるパン棚の前で血を流してバイトが倒れている。窓ガラスの向こうにはさっきまで店にいた客たちが中を覗き込んでいる。
 こういう事態になるような始まりではなかった。バイトに話しかけている男の子がいると思いながらパン窯の様子を見ていた。ここのパンが本当に好きなんです、だから、好きな人に食べて欲しくて、買ってました。だけど、その人と仲悪くなって、どうしてもダメで、気付いたら会えなくなって、最後の望みでここのパンを渡したけど、ダメで、どうしてなんですか、どうしたらいいんですか。振り返った時にはバイトは刺されていた。
 駆け寄ったのが間違いだった。カウンター越しにナイフを突きつけられている。さあ、なんて答えよう。おかしくなってしまった相手に何ができるだろうか。パンの匂いは幸せの匂いとか言うのになんでこんなことになった。大丈夫、間違ってないと言えばいいのか。全くそう思っていないことを言うのが苦手だから無理だ。じゃあ、ダメだね、て言えばいいのか。どう考えても刺されるだろう。やっぱり答えはない。どちらを向いても死だ。
「そうですね…」という一言の間にこれだけ考えられるものなのだと感心した。そうしながら、カウンターの下を気付かれない様にまさぐることもできている。人間は案外やれるものだ。しかし、カウンターの下には何もない。紙袋があるくらいだ。それを引っ張り出したところで、何にもならないなあ。何にもならないと言えば、外のやつらは警察を呼んでくれているだろうか。ただ見ているだけではないだろうか。
 ナイフが服を押さえ始めた。
 やばい、このままでは、と思った時に、左手に麺棒を持っているのに気がついた。服が裂けて皮膚が裂けてくる。必死に左手を動かして麺棒で男の子の腕を払おうとした。既に血が出始めていたが、その時には麺棒はナイフを振り払い始めてもいた。
「うわー!」
 声が出た瞬間、全ての速度が戻った。ナイフが飛んだ。返す綿棒で男の子の顔を打つと男の子がぐっ、と言って倒れた。
 何の間違いか、命だけは助かった。

wrong/間違い

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