乳糖不耐殺人事件

 1953年12月18日の晩、ニューヨークはコロンバス公園近くの中華レストラン「玉林飯店」で妻のアイリーンと銀婚式のディナーを食べていたオーブリー・スターキーは、唐辛子を齧った口を冷ますためにスープを飲んだ。しばらくして、急に体中の穴という穴から水分を吹き出し、そのまま倒れて帰らぬ人となった。夫の死を目の前で見て気を失ったアイリーンの気持ちを推しはかることは誰にもできない。
 直ちに店は閉められ、現場検証が行われた。厨房にいた者、料理を運んだ者、あらゆる者に嫌疑がかかったが、料理も材料も全くもって問題はなかったし、解剖の結果、体の中から毒も発見されなかった。そもそも誰にも動機がなかった。オーブリーがこの店に来たのは初めてであったし、周りの客の話からすると、中華料理を食べるのも初めてだったようである。
「あれだけの巨躯で中華料理を食べたことがないなんてね」と客の一人は事情聴取にそう答えた。
 ただ食べ物を喉に詰まらせただけなのか。ここで事態が進展した。オーブリーは極度の乳糖不耐症であった。その彼が飲んだスープに牛乳が入っていたのである。アイリーンは直ちに店を訴えた。
 これで事件の決着がついたかと思われたが、NYPDの腕利きポール・ユートゥクスが操作に参加すると、思わぬ犯人が浮かび上がったのである。
「いえ、なに、スターキー家のキッチンにビネガーが無かったものですから」
「つまり…?」
「名前からピンと来たのです。英国からの移民であろうにビネガーがない、そのくせフライドポテトが好物だったという。これは何か理由があるに違いないと思いました。調べると、アイリーンは長年油物をオーブリーに食べさせ、胃や腸に油の膜を作っていた。それを溶かすのは酢の酸です。二人は「玉林飯店」で前菜の後に黒酢の炒めを食べました。それで、今までの油の膜が取れたのです。次に唐辛子を齧らせ、その辛さを抑えるためにスープを飲ませた。それに入っている牛乳が、今まで油で守られていた胃や腸から一気に染み込み、それで中毒を起こしたのです。そうまでしなければ、乳糖不耐症で死ぬものはいませんからね」
「いやはや。しかし、動機は一体…?」
「第一は遺産です。しかし、第二は牛乳が飲めないこと。アイリーンは南部の酪農家の娘でした。夫に合わせて牛乳が飲めないことはさぞ辛かったに違いありません」
「回りくどいですね」
「腸のように捻れた殺人でした」

latte/ラテ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?