山城国の民話について:櫟の社と黄鼻丸

 現在まで残ることのなかった神社も数多くある。その中の一つに、山城国相楽郡の「櫟の社(いちいのやしろ)」がある。あると言っても、『延喜式』にはその名が見えないが、仁徳天皇が手づから植えられたという櫟の古木があり、それが衆生の信仰を集めていた様子を鎌倉時代中期にまとめられた『山城国縁起』から伺うことができる。ただし、応仁の乱の後に編纂されたと考えられる『相楽郡諸式』には平安中期に既に廃絶したとなっており、おそらくは9世紀の初めから11世紀後半にかけて細々と存在したのであろう。
 場所としては現在の釜塚が考えられるが、今日、その姿を偲ぶことはできない。しかし、『相楽郡縁起』より少し前に成立したと考えられる『祝園記』に取材されている逸話はここに記しておいても良いと思う。

 櫟の社は霜月に大祭を行なっていた。神楽があり神舞があり、最後は炎で清めた櫟の葉で巫女が参列者を打つのである。大祭と言っても、規模は小さなものであったであろうことが知れる。しかし、細々と続いていたある年、大祭に黄鼻丸が現れたのである。
 日本史には数多くの悪党が登場するが、黄鼻丸はその中でも最も目立たぬ存在の一つであるし、そもそも実在したかも疑わしい。記述があるのは『上狛草子』と『祝園記』のこの逸話のみであり、他の文献には全く見えないからである。おそらくは、他の大悪党たちを下敷きに生み出された存在ではあるに違いない。しかし、そのような悪をわざわざ生み出すことで耐え忍ぶしかないほどに、当時の民衆が悪に対してなす術がなかったことの証左とも言えるかも知れない。
 さて、黄鼻丸はー『祝園記』によればー身の丈6尺5寸という大男であり、酒を2升でも3升でも飲んだ。普通、酒を飲めば鼻は赤くなるが、それを通り越して黄色く見えたところからその名がついたらしい。それだけであれば可愛げのある大酒飲みで済んでいるのだが、黄鼻丸は徒党を組み、蔵から米を奪い、抵抗すれば田畑を荒らした。官吏も手がつけられなかった。さらに悪いことには、酔うとただ自分の楽しみのためだけに子供を捻り潰して殺す癖があったらしい。当然のことながら、畿内では蛇蝎の如く忌み嫌われていた。それが櫟の社の大祭に現れたのである。
 信心のためでないことだけは確かだった。徒党を引き連れ、腰に酒の入った徳利をぶら下げていることからそれは明らかだった。目的は直ぐに知れた。今年、巫女を務める宮司の12の娘を狙いに来たのである。
 もちろん、誰も抗うことができない。参道の真ん中を意気揚々と進む黄鼻丸たちは神楽殿の正面に陣取った。彼らなら娘をいつでも拐かすことができた。しかし、その舞をじっくり楽しんでから、という悪い趣向であった。
 既に舞は始まっていた。娘はまるで外界が存在しないかのように静かに舞っていた。手には、かの櫟の木から手折られた一枝が握られていた。舞の文句が『祝園記』には書かれているので、それをそのまま転記する。

おんかみのあまねきおほむたからゐたまひて
まつろわぬたみどもしずめたまひて
ゑまいたもうこそかくもたうとし
はるかよりおはします
あかねさすいちいのやしろのそのにわの
ほそきいちいのそのきにも
かみのみすがたのやどらん

 字面からだけではその全貌を捉えることはできないが、、舞は今想像されるより激しいものであったと考えられる。少女の額には汗も滲んだであろう。それを見ながら黄鼻丸たちは酒を飲んだ。「騒ぎ罵る」と『祝園記』にはある。その醜態は目に余るものだったに違いない。
 舞が終わると、いよいよ櫟を清めるための火が持って来られた。禰宜たちの手は震えていた。これから起こるであろう惨劇を彼らではどうしようもなかった。神楽殿の前に火を置くと、禰宜たちは一散に逃げていった。
 娘は神楽殿の階段をしずしずと降り、火の上に櫟をさっとかざした。こうして清められた櫟で打っていただこうと衆生が列をなすのであるが、今日は誰もが遠巻きに眺めていることしかできなかった。
「では、まずわしから」
 そうにやけ顔で言いながら、黄鼻丸は娘の前にかがみ込んだ。枝で打たれた瞬間に娘を拐かして逃げる算段であった。娘はまるで巨大な岩である黄鼻丸を前にしても表情を変えなかった。そして、右の肩から左の肩へ、木の枝で打ったのである。その刹那、黄鼻丸は立ち上がって娘に手を伸ばしたが、急に背を弓形に曲げて悶え始めた。様子がおかしいことを見てとった徒党も一斉に立ち上がった。
「痒い、背中が痒い、誰ぞ掻け」
 慌てて子分の1人が背を掻き始めた。
「着物の上からではどうにもならん、直接に掻け」
 周りのものが服を脱がそうとするが、酒を飲み、火にあたって汗をかいた体に着物は吸い付いてしまったようで、引き剥がすことができない。
「あああ、埒があかん。いい、上から殴りつけろ。何をしている、早くしろ」
言われて仕方なく子分らは背中を殴りつけた。しかし、一向に験が見えない。黄鼻丸はのたうちまわって悶えている。と、急に立ち上がり、きりきりまいをしたかと思うと、どうと倒れ伏した。見るともう命がなかった。
 子分たちが服を脱がして見た背中、その様子を『祝園記』は「はだへは条になりて爛れたり。あたかも櫟の葉の張り付きて食い入るが如し」と伝えている。

 大抵の霊験話はここで終わりだが、『祝園記』には続きがある。人々が驚き訝しんでいると、急に本殿の中から叫び声が上がった。見ると、本殿がみるみる炎に包まれていく。神楽殿の前の火が風で燃え移ったのか、どさくさに紛れて徒党の一人が火を付けたのか、それはわからない。しかし、社はすぐに燃え落ちてしまった。それで櫟の社も途絶えてしまったと『祝園記』にはあるが、それは文学的な誇張であろう。

itchy/痒い

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