ラットレース②


「動くな! そこでじっとしてろ! 二度と動くな!」
 叫びながらオールを回す。
 ネズミの食害はみるみる内に拡がっていった。何か一つを食べ尽くすということはしない。少しずつ齧っている。齧られた部分を捨てて残りを食べる。もちろん、食べ物はギリギリしか積んでいない。捨てれば捨てるほど陸地は遠ざかり死は近づいて来る。
 どうにかしてネズミを追い出すか止めなければならない。しかし、姿も見ないし声も聞かないものをどうしたらいいだろうか。そもそも、本当にいるんだろうか。
 姿を確認するには一度手を止めて探すしかない。しかし、シートから少しは出られるにしてもカヤックの外には出られないのだからこれはできないに等しい。
 声は大西洋の荒波に掻き消されて聞こえるはずもない。しかし、その中から聞き出そうとしたのが間違いだった。今は波の音が全てネズミの鳴き声に聞こえる。こちらが見ていないところから集団で襲いかかって来るような気がする。
 それを追い払うには大声を出すしかない。
「こら! どこに行った! 出てこい!」
 全てをモニタリングされていると言っても通信は必要な時にしかしないから、何を言っていようが地上のサポートには聞かれないで済む。もし、そうでなく、黙ったままこれを耐えなければならないと思うと…。
「いいか、後10日じっとしてろ。後10日なら…」
 そう言った途端、ペダルの感触がなくなった。
 何が起こった。ペダルがなくなった? いや、ペダルはある。これは…これは、舵との接続が無くなっている。舵が取れない。
 ネズミが食い切る? まさか、こんな固いものを、どうやって? 何のために?
 ネズミに聞こうとすると、さっきまであれほどあった気配がなくなっていた。周りからな波の音しかしない。足先の感触も消えた。ふと全てが平静になった。よかった。
 しかし、何かが心の底に引っかかっている。なんだろう? ネズミがいなくなったから張り合いがなくなった? 違う。何か、昔から言われていたこと、聞いたことのあること…。
 …ネズミは船が沈む前には逃げ出す。
 ジジっと無線の始まる音が流れ込んできた。
「様子はどうだ。落ち着いて聞け。航路の先に低気圧ができた。海が荒れそうだ。押し戻されるかも知れない。舵取りをうまくやってくれ」
「…」
「どうした?」
「く、く、くそ!」
「気持ちは分かる。しかし、こういう時こそ冷静にならなければダメだ」

broke/壊れた

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