見出し画像

岡田育さん主催 哲学対話茶会「片想いとは何か」に参加③

岡田育さん主催のオンライン哲学対話茶会「片想いとは何か」に参加しました。

本編3時間+アフタートーク。私は深夜1:30頃に脱落しトータル5時間半の参加でした。
本編開始わずか30分ほどで、私の過去の「破綻した片想い」(for推し)は、もしかしたら私が加害者側だったのではという不都合な真実に直面。


すっかり自分の過去への内省モードに入りましたが、その間にも他の参加者からは聞き逃せない言葉が次々と。印象的だった問いについて、改めて自分事として考えてみます。

【問い】「片想い上手、片想い下手とは」

過去の経験から、片想いは成就させないことが理想と考えることで「サステナブル(持続可能)な片想いシステム」を手に入れた私。
自分は片想い上手だと自負していました。


自己肯定感という概念がありますが、「自己肯定感の高さ」と「片想い上手」とは親和性が高いように思います。

参加者のエピソードを伺う中で、自分にはない価値観だなと感じたのは
推しに対して自分は「壁」でありたい、なるべく「無」でありたい、ファンの1人という「数」でありたい、という意見。
これ、聞いた時は心の底から「なぜ??」と思ったのですが、同意する方が複数いたので、珍しいことではないようです。しかも、三次元から二次元まで、色々なジャンルの方が同意していた。
「推しが尊い」という言葉があるように、自らと推しとは違う次元にあるものとする気持ちは、たしかに理解はできるのです。

…が、私の姿勢とは違います。

私は、全力で推す相手に対しては「私」でありたい。「私があなたを推している!」「私が存在している!」と伝えたい。

逆に、それなりの力で応援する人(推しとは言えない)に対しては「無」でありたい。「モブとして扱ってほしい」と思う。先程の方たちとは真逆の発想です。

推しに対して誠実であることが、私にとっての片想い=推し活動なのですが、そこには「自分の誠実さは、推しにとって価値のあるもの」という無意識の自己評価があるのだと思います。
だから片想いしていて気分が良く、自分は「片想い上手」だと感じられるもの当然。
これ、自己肯定感の高さが如実に表れていますね。
「私が推すことはあなたのためになっている」という理屈になっています。


だんだん雲行きがあやしくなってきました。。


さらに突き詰めると、
私にとって「推す」とは自分が推しに対して誠実であり続ける覚悟を決めたということなので、まあ、つまり、、、「誠実に推すから相手も相応の振る舞いをするべき!」という思考になってきますよね。
言葉で整理すると、とんでもなく暴力的。

私が良しとしたあなたの在り方を、私は誠実に推し続ける。だからあなたはその理想的な姿であれ、という一方的な契約。
この「あなたの在り方」が、私の二次創作だったことで、私の片想いは破綻しました。

片想いは、常にしている側のターンなんですよね。

このエネルギーは正しく使えば、悪くないと思います。自分は幸せな片想いな続けられる、推しにとってはそれなりの情熱をもったファンが1人確保できる。

ただ、本人に近づいてはいけない。まして「あなたの在り方」について、決して答え合わせをしてはいけない。

推しは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの

これに尽きます。室生犀星先生。こんな話のために引用&改変してすみません。



そして、冒頭の問いについての私の考えと、続けての問いはこちら。

片想い上手は幸福だが、暴力性と、自己完結した理屈の危うさを忘れてはいけない。
これは、片想い上手と言えるのだろうか。自信を持った片想いは、実は「片想い下手」なのでは??

・・・・・・・

しかし過去を振り返ると、このスタンスを実際の恋愛にも適用してきたので、今思えば申し訳なかったことが幾つか。。

人は、見たい景色しか見ていないのだと痛感します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?