すべては自分だった

会社へ行く前、人格否定してくる上司の顔が浮かんで胃がきゅっと緊張したりするのを感じたが、80%はリラックスして出勤した。

昔だったらぎりぎりまで「会社行きたくないな」と感じていたはずだが、今日は芯から安心に浸っている感じだった。

そして、会社で誰かのひそひそ話が聞こえたとき、昔だったら

「自分のことかもしれない」

と身体が緊張しはじめるのだが、今回は一瞬そんな出来事が起こったものの、

「あ、これはただ起こっているだけだ」

「幻想だし、他人はいないんだ」

と思い出し、仕事に集中することができた。

体調が気になるときもあったが、基本的にリラックスしていた。

そして、時間があっという間に過ぎるのを感じていた。

中野さんのセッションを受け始めたころ、時間が早く過ぎ去る感覚があったが、最近は負担がかかっていたせいなのか、会社にいる時間がすごく長く感じてつらかった。

しかし、今日はほんとうに時間があっという間だった。

こういうプロセスをずっと繰り返していくんだろう。

そして、何事もなく家について、ご飯をたべ、Youtube を視聴していた。

ふと、「あ、いまを久しぶりに楽しんでいるな」と感じた。

いつも仕事のことや、人間関係の悩みをわざわざ思い出して、苦しさから逃れようと何かをしていたけれど、今日は違った。

いつの間にか日付が変わる時間になっていて、浴室へ向かった。

早く寝ようと思っていたので、シャワーだけを浴びるつもりだったが、なんとなく湯舟につかりたくなり、バスタブを洗い始めた。

丁寧に洗っていると、その部分が

「気づいてくれてありがとう」

と伝えているようだった。

不思議だが、そのときに自分と世界の境界線がなくなった。

「あ、ぜんぶ自分だった」

目が届かないところを洗っている自分の映像と、今まで見ないようにしていた闇の部分に光が当たる映像が重なり合って、急にかなしいやうれしいや、いとしいや、さびしいなど、明確に分けられないなんとも言えない感情がまじりあって、胸がくるしくなって久しぶりに泣くことができた。

これまでどんなにつらいことがあっても泣くことができなかったのに、やっと泣くことができた。

他人の目を気にしてずいぶん長い間生きてきたから、

「他人はいない」「自分しかいなかった」

ことにほっとしつつも

「あ、ほんとうにこの世界は自分ひとりなんだ」

とわかり、切なくなったり孤独を感じたりした。

そんな自分を冷静に感じながら「やっぱり世界は矛盾する二つの概念がつねに一緒にあるんだ」と思った。

今まで許せないと感じた人たちも、大事にしてくれた人も、無関心だった人も、みんな自分のためにいてくれて、自分自身だったことを知り、特に許せないと感じていた人に対して

「受け止められなくてごめん」

と申し訳ない気持ちになった。

そして、不思議とその気持ちは、最後には感謝へと変わった。

湯舟につかりながら、

「他人の目は自分の目だった」ことに気づいた

わたしはずっと自分自身に許されたくて、もがいていたんだと。

そして、批判していた人たちのことがずっとうらやましかったんだと気づいた。

「自分もそういう面はあるけど、表面に出さないように我慢しているぞ」

思い返せば、誰かを批判したくなったとき、そんなことを思っていた。

自分のことを厳しく見つめている自分の目が、そこに常にあったことにようやく気付いた。

そして、自分や他人に厳しくすることで、傷つくことを回避(防御)していたように思う。

それまで「僕」の外側に見えていた世界は実は「僕」の内側にあり、「僕」の内側の世界だと思っていたものが全部外側にあった。口から手をつっこまれて、身体を全部裏返しにされた奇妙な感覚。内と外は同じものだった。「私」という夢から覚めて、わたしを生きる 中野真作

今日仕事に行く前と休憩時間に中野さんの本を読み返していて、上記の表現が気になっていた。「数回読み返しているはずなのに、こんなこと書かれていたんだ」「いい表現だな」なんて思っていたが、まさか今日自分が同じ体験をするとは思わなかった。

すべてはただ起こっているだけ。

他人はいなくて、自分を攻撃してくる人も愛されたがっている自分の一部。

世界には、自分しかいない。自分の見えている部分、感じている部分だけが自分の世界として存在している。

好きも嫌いも無関心も、すべて同価値で、自分が勝手に意味をつけているだけ。

そんな思いがぽんぽん湧き上がってくる。

湯舟につかりながら、「自分は助かったんだ」「自分は最初からずっと許されていたし、愛されていたんだ」「見捨てられたことなど、一度もなかった」

そんな安心感と至福感で胸がいっぱいになった。

ほんとうに久しぶりに「いま」という時間に浸っていた。

永遠という時間を切り取って、自分は頭のなかのストーリーを組み立てて、ただ遊んでいただけなんだと。

記憶の中のストーリーに、完璧としかいえない道筋に感謝の気持ちがわいてきた。

湯舟のお湯に、天井の丸い照明が映っていて、月みたいだと思った。

学生時代や留学していたとき、生きることがつらいと感じていて、夜空を見上げて満月をよく見ていた。

「ただ見ているだけなんだな」

と頼りなさと薄情さを感じていた。

でも、今日、湯舟に映った照明を見つめて

「ずっと見守られていたんだ」

と世界の在り方をなんとなく理解した。

自分はカウンセラーやセラピストとして生きていくような気がする。



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