父の日 -父・澁澤正一さんの思い出-
今回は、澁澤さんがお話します。
父のことを今振り返ると、「もう二度と父のような人たちって出てこないんだろうな」と思います。
彼はあまり勉強が好きではなかったのですが、大学に行く人が少なかった時代ということもあって、東京大学の農学部に行きました。
戦争中、当時戦局が悪くなってきて、人々は大変な時でしたから、実験動物として飼っている牛や馬は、えさがかかるので処分しろと軍から命令が来るのです。上野動物園の象も殺せと言われた時代です。ですが、どう処理しろということまでは言って来ないので、当然東大生たちのおなかに入り、食料に困ったという意識はなかったようです。
大学の実験室には、農学部なのでエチルアルコールがいくらでもあって、水で割ってアルコールが強いと火をつけてちょっと飛ばして、ひしゃくで回し飲みしながら、お酒にも事欠かなかったわけです。軍の供出として、小麦粉だとかお米だとかをもらってきていて、本当にけしからん大学生だったのかもしれません。
その後、農学部から軍に徴集されて生き残って帰ってきて、最初にやった仕事が、澁澤農場というのを「田無」あたりの田舎で始めるのですが、すぐに息詰まるのです。
要するに学生が農学部を出たというだけの農場で、何も知らないで始めたわけです。地元の人から見れば、澁澤家の御曹司が来たと大騒ぎになります。田舎の人でさえ、渋沢栄一を知っている時代ですから、そんな中で、本人は首をくくらねばいけないと思っていたほどです。
それを見かねた当時の財界人たちは、ほとんどの人が栄一さんにかわいがられたり、教えを受けた人たちだったので、あの坊ちゃんをどうにかしなければいけないということで、すぐに何人かが集まって、彼の教育をどうするかという会議が開かれました。
その会議のまとめ役を担っていたのが、永野重雄さんといって、今の新日鉄の社長・会長になられた、日本商工会議所の会頭でもあった経済界の重鎮の方です。栄一さんの三男の正雄、私の祖父のところに寄宿をしていました。その人が財界から300万円を集めて、毎月100万ずつ使って自分の進路を決めろ、と父に渡します。
1940年代の後半ですので、月100万というのは今でいうと、1000万以上、1500万くらいの経済価値でした。
父は、一生懸命本を買ったり、文献で調べたりして模索するのですが、何もわからないし、お金が使いきれない。
その時、財界の人から彼がもらったお題は二つ。これから日本が発展して、もう一度復興していくためにはどうしてもエネルギーが必要だ。これからのエネルギーを考えると、日本はエネルギーを持っていなくて、石油を取ろうとして第二次世界大戦に突っ走ってしまった。そういう過ちを犯さないためにも、次の時代のエネルギーはたぶん原子力だろう。日本はあの原子力爆弾で広島と長崎に壊滅的な被害を受けたので、これからは原子力の平和利用が重要となるだろう。その原子力の道に進むか、もう一つは、戦争でたくさん迷惑をかけたアジアの人たちへのつぐないという意味で、日本の技術力が、たぶん役に立つ日が来る。アジアの人たち、あるいは発展途上国への技術協力の道へ進むかを、300万のお金で、3か月で決めて答えを出せといわれます。
お金を使い切るのが至上命題だったので、どんなに飲み食いしても遊んでも、どんなに本を買っても彼は月100万のお金は使いきれない。悩みながらも、はたと思ったのが、学者何人か、若手の経済人何人かを雇って、2か月でこれから日本の進むべき道はどうなのかという論文を書かせる。札束でほっぺたをたたくようにして…だけど、その時は戦後でみんな生活にすごく困っていたので、喜んでやってくれました。何人かで集まったレポートをもとに会議を開いて、彼は耳学問で聴いて、原子力は無理だから技術協力に行こうということで、タイのバンコクに赴任して行きます。
それも全部、財界の人たちがいつも見ている。変なことしないかとか、また会社をつぶさないかと。
嫁さんをもらうのも、その当時は澁澤家の栄一の直系の人たちがあつまった澁澤親族会議というのがあって、うちにもありますが、澁澤家家訓という分厚い本があって、それにのっとって、この嫁さんはどうかと評価するのです。
変な話ですが、後の人で、栄一さんが家訓を作った時に「この家訓はとても厳格に作ってありますけど、あなたはこんな生き方をしていませんよね」と聞いた人がいるらしいのですが、栄一は、「俺ができなかったから残しとくんだ」といって、笑っていたというのです。
栄一さんは、そうとうお茶目だったと思います。
お茶目じゃないと、あれだけ女性関係は豊富じゃなかったと思いますね。
だけど、やっぱり当時栄一さんが残した家訓だというので、教え子たちと、親族たちは、これにのっとって、嫁さんを選ばなければといって嫁さんを決めたのが私の母です。
とにかく父は、周りから全部見られ、監視され、しかもだめだといわれ、頭をたたかれながら生きなきゃいけない人生で、とても堅苦しく、絶えず評価をされて生きてきました。
彼は日本の技術協力のシステムを立ち上げて、海外技術協力事業団というのが、今は中央大学になっていますが、市ヶ谷の自衛隊の隣に、ビルを建てて、日本の技術協力はそこから発展していくのです。
ところが、技術協力というのが、外交の武器になるということが分かってきます。
最初に立ち上げたときは、彼を応援している財界の偉い人たちがお金を出し合ったり、若い役人たちを口説いてきて、協力させて、半官半民で立ち上げた自由度の高い組織が、ある日突然、国の機関になってしまって、結局彼は人生で最も力を注いできたものを突然国に取り上げられてしまうのです。それがJICA・今の国際協力機構です。
ですから、いろんなストレスがあったと思います。
家にもあまり帰ってこないし、帰ってきてもべろんべろんに酔っぱらっていました。
「澁澤さんのことをよく知ってます」というわからない女性の方もたくさん家にお見えになりました。
それで、61歳で彼は亡くなるのですが、40代でJICAを辞めて、彼は一番大切なものを取り上げられるのですが、私がまさにハウステンボスをやめたくらいの年齢で、取り上げられてから、亡くなるまでの20年間をほとんど彼は丸の内の澁澤事務所で過ごしました。
ただ、澁澤という名前が今とは違う重さがあるので、いろんな方がお見えになっていました。ある時は、その当時60年代の安保闘争の騒乱の中から逃げてきた岸首相が父とまじめな顔をして冗談を言いながら、碁を打っていたり、しばらくすると全共闘の藤本さんが監獄に入って、シャンソン歌手の石井好子さんから頼まれて、加藤登紀子さんをお預かりして、お二人の結婚までの世話をしていたというようなこともやっていました。
以前にお話した、詐欺師や何をやっていたのかわからないような人や、宗教関係の人や、そんな人たちが絶えず出入りしながら、普通の学生の私から見ると、まともな人はほとんどいませんでした。
「まともって何?」ということもあるけど、当時は高度経済成長で、大企業に勤めて、朝行ってらっしゃいと言って家を出て、一生懸命に働いている人たちが、絶対的な世の中の同調圧力はありましたから、同調圧力から逃れた変人たちの集まりみたいなところが澁澤事務所でしたね。
当然、父も澁澤事務所で未来を考えていたと思いますが、澁澤事務所から外に出ていってしまった私と、澁澤事務所を場所として維持していた父とは、生き方は違います。父の時代は、自由に飛び立つことはできなかったのだろうと思います。
あのまま父が存命で生きていたら、私はパラグアイから帰ってこなかったかもしれない。向こうで国連の職員にならないかという誘いもあったし、今でいうグローバル世界の中でいくらでも自分は自由に生きていけると、その当時のグローバルな価値観の中で勝ち抜いていけるのだという気負いみたいなものはありましたね。
だけど、30歳になるかならないかで父が亡くなって、そこから先、自分で決めねばならないということで、父の生き方が気になってきたのかもしれない。
絶えず、もがいてきたし、もがいてみたら、結構自由な世界で、どこかの大きな組織に属さないで、自由人なのか根無し草なのか、わからないけど、そういう生き方を自分で作っていくということが当たり前になりました。今の自分があるのは、そういう家庭環境の中で育ってきたということは大きいですね。
父が偉いなと思ったのは、突然がんで亡くなって、私が遺産相続の手続きをしなければいけないのですが、どんなものがあるのか、何もわからなくて、1年かけて税理士さんと一つ一つ見ていくと、見事に父の財産は借金と財産が帳消しになって、ゼロでした。なので、父の人生は大変でしたが、私はそれで自由になれました。
だけど全くのゼロでないのは、人間関係を残してくれたことです。
人間関係を真ん中に置いた人生というのが、持続可能なのだということを教えてくれたのは父でしたね。人間が残せるものは、結局、財産でもお金でもなくて、人間関係。
SDGsにもつながりますが、持続可能な社会というのは、人とのつながりに価値を置く生き方ではないかと思います。
写真:タイのバンセン海岸にて 母・和子さん、寿一さん、父・正一さん
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