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徒然なるままに、湖西や上代のことどもに揺蕩う


湖西は、寂れていた。高島から、マキノそして、余呉へつながる道。

京都、奈良、兵庫、そして大阪の景観がどんどん損なわれる中、湖西には古代ながらの佇まいを感じさせるような場所が、つい最近までは結構、残っていた。


この湖西の道は、古代の大和朝廷の大王家とそれに付き従って、この島の中央政府を作ることになる豪族の祖がたどった道の一つである。北陸、越は、半島つたいに島へ渡った一族郎党がたどり着いた地域の一つ。そこから、海岸線に沿って、今の福井県、そして、琵琶湖へ向かう北の道を逆走し、大きな湖に出会って、湖東と湖西に別れたのであろう。もう一つは、越から、内陸へ入るルート。諏訪から、今の中央西道を通って、美濃、尾張へ!彼らは、互いに連絡を取り合いつつ、島の現地人を従え、”国”を作っていったと考えられる。

内陸の大きな淡水湖は、「命の源泉」、そこから流れ出る川を用いて、灌漑し、水を引いて、稲を作った。古代にあっては、余りにも温暖で湿潤すぎると、微生物やウイルスなどが跋扈する。例えば、シルクロードは、大きな山脈み(やまなみ)の麓と砂漠の淵に沿って、発展しているが、医療が未発達の古代にあっては、天然のサナトリウムであったのだろうと思われる。

内陸に入った一団も、諏訪に大きな淡水湖を見つけた。諏訪湖だ。神の恵みと感謝したであろう。今でも、諏訪大社は、大きな社である。なぜここに、高い地位を持つ、大きな御社ができたか?いまの天皇家とも繋がり深い神秘の御社。それはその起源を古代にまで遡れるからだろう。日本書紀にも触れられおり、諏訪大社の社格はなお、著しく高い。

武田信玄なども、諏訪大社を信仰している。有名な側室のお一人が、”由布姫”である。諏訪を尊ぶ信玄は、諏訪頼重を攻め滅ぼし、その娘を側室に迎える。これが由布姫である。側ではあるが、武田の主従はこれを尊び、信玄没後、家督を継ぐ勝頼の生母が、この由布姫である。

信玄の時代、なお、この地の神聖についての知識が、少なくとも、公家や武家でもその、棟梁クラスには共有されていたのであろう。清和源氏の血を濃く受け継ぐ武田信玄ではあるが、武家は、公家社会では一段下に見られ、その権威は小さい。そこを諏訪の権威で飾ったのであろう。

越、北陸、琵琶湖の周りから京都、大和。もう一つの道は、越から、内陸の諏訪、美濃、尾張、そして、やはり関ヶ原を抜けて、近江、京都、大和とたどる道は、古代における大王家とその郎党の”地盤”であったに違いない。

しかし、この島には、北九州を中心とする勢力、出雲地域に陣取る、新しく合理的で質の良い製鉄の知識、技術を持った集団など様々な勢力が、元々はあったに違いない。大王家は、大和、飛鳥に陣取り、その版図を伸ばしていったと考えられる。出雲国譲り、国引きの神話。ヤマトタケルや神功皇后の征西戦など、日本書紀の神話には、それなりの史実が隠されている。もちろん、8世紀の政権、特に、持統ー不比等ラインにとって都合の良い様に創作されてはいるのだろうが、それでも、なんとなく、この国の成り立ちのあらましが想像できるのが楽しい。

壬申の乱は、古代最大の戦乱と言われる。少なくとも記録に残っている系図からも天智は母が卑女(このころの大王家からみて!ということ、当時、いまだに、縦穴住居で暮らしていた庶民ではないけど)に対し、天武の母は、息長氏系の尾張正当勢力の娘であるから、

天武系   :上記の大王家の正当な後継者
天智ー大友系:百済、北九州勢力を基盤とする新勢力。

新勢力というか、天智は、皇室内では身分が低く、百済亡命者がいたことを幸い、これと結んで、皇室内でソフトなクーデター的なものを起こしたのだろう。上代に一度は、征服された勢力の巻き返しであったに違いないが、壬申の乱で、一旦は、鎮圧されたということだと思う。天智ー大友系は、大海人皇子となのっていた時代の天武をなんとか押し込めて、権力を剥ぎ取ろうとしていたが、天武は正当勢力側。支援勢力も大きく、特に、近江、美濃、尾張には息長氏系の勢力など、大きな軍事力ももつ豪族連合がいて、天武を支援していたに違いない。実際、壬申の乱の開始前、蟄居させられていた大海人皇子であるが、なんとかその監視の目を潜り抜け、近江から尾張に一度、逐電する。その報を聞いた大友皇子側は、大海人皇子が尾張に逃げたと聞いただけで、戦意喪失。散りじりにならんばかりにうろたえている様子が描かれている。


しかし、天武崩御の後、ここで、持統という不思議な女帝が立つ。不比等は父、鎌足の意志を継ぎ、天武の妻というよりは、天智の娘であった持統を抱き込み、この国の上代の歴史を曖昧にして、そこここ改竄。で、現政権とその権力基盤を盤石にした乙巳の変、大化改新を正義の鉄槌と書き換えてしまった。


しかし、天智ー藤原氏側の勢力も一気に、この国を簒奪するという様な戦略は取らなかった、というより、取れなかったのだろう。まだまだ、近江、美濃、尾張から東国には、大きな勢力もあり、その上、北九州から韓半島にかけての勢力の後ろ盾でもあっただろう百済本国が滅びているのだ。鎌足ー不比等の子孫たちは、古代からの大豪族の末裔を、一家一家、すり鉢の中に誘い込み、擂粉木ですり潰す様に潰していく。平安時代とは、政治史的にはその様な気の長い権力闘争の歴史とも見れるわけである。


この国の”合議体制”、英雄を認めず、複数の権力者や権力団体が裏で合議し、妥協しあって、粛々と物事を決めていくやり方には、上代からの長い歴史とそこで培われた適応的な意思決定の流れが効いているんだろうと思う。狭い場所で、いくつもの集団がその興隆と退勢を繰り返しながら、なんとか折り合って暮らしてきたことからくる必然の適応反応であったのだろう。

なんだか、湖西の道の話を書こうと始めたのだが、上代の話になった。湖西の、特に朽木谷は、歴史上、戦国期に一度、華々しく?登場している。信長の北陸攻めと、その時の浅井長政の裏切りによる信長の撤退戦だ。

信長の撤退戦、というか、この時、”浅井が裏切った”との報告を聞いた瞬間、信長は、自分だけ、近習のみを連れて、馬を駆って一目散に逃げ出したらしい。浅井が裏切れば負け戦というのは、鼻っから頭にあったのだろう。同盟軍の家康は、数日、全く知らされていなかったらしい。秀吉がひょっこりとやってきて、

「上様(信長)は、もう、この辺りにはいない。京へ向かって落ちられた。」

と告げられたらしい。この時の、秀吉、家康の撤退戦は、戦国期の物語では必ず、語られる壮絶なものであったらしい。”麒麟が来る”でも、明智軍も頑張っていたのが、ちらっと物語に挿入されていた。

この時、信長は、湖西の道をとる。のちに壮絶に裏切る松永弾正が、この時はしおらしく、朽木谷に蟠踞していた朽木氏(当時の頭首:朽木元綱)を口説き、信長の味方をさせることに成功、そこから、信長の退路が開けたとなっている。

京都ー朽木谷ー福井 と繋がる道は、”鯖街道”として知られ、古代からの大きな街道である。北陸に上がる様々な文物を京都に運んだことで古代は栄えたらしい。京都からは、大津方面に抜けるのではなく、高野川沿いから大原の里・八瀬方面へ出て、で、そのまま北の山道を抜けて、安曇川、高島方面に抜ける脇街道がある。マキノにはいまでは、有名なメタセコイアの並木などもある

が、むしろ、朽木興聖寺などが面白い。やはり、鎌倉から室町にかけて、道元禅師の開祖となる”曹洞宗”この名刹として知られたものらしいが、そんなことより、ここには、信長勃興前に、三好衆などの勃興で、三好ー松永の変があって、将軍でありながら、京都を追われた12代将軍、足利義晴がその無聊を慰めるために、ここで、枯山水風の庭園を、あり合わせの材料で造られたりした跡がいまでも、残っているらしい。”足利庭園”というらしい。つい最近まで、朽ちるままになっていたらしいが、ここ最近、少し整備されて、観光できる様になったらしい。

信長は退路、ここで、興聖寺の足利庭園を横目にでも眺めたであろうか?


歴史はたまに、不思議な縁のつながりを感じさせる出会いや別れ、邂逅など、起こるものである。土地の不思議。


参考文献:

















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