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安芸の国の話

「姫、Go To もとりあえず、うまく行っているようで、これを使って旅行した人の中で、新型コロナ感染が明らかになったのは、ほんの僅かのようですね。」

「新型コロナは、今は、この国では、感染自体より、そのことによる世間の反応の方が怖いわい!www」

「どこか行ってみますか?」

「関東の武蔵野の方か、な、それか、安芸の国、久しぶりに行きたいかなぁ?」

「安芸は、安芸吉田にいた国人の一人、毛利氏が戦国の覇者の一人になるため、毛利が守護であったかのような印象ですけど、室町を通じて、ほぼ、甲斐源氏の流れをくむ武田氏の連枝様が元々の守護大名ですよね。」

「ああ、そうじゃな!安芸武田氏は、戦国が始まってすぐに没落するからなぁ・・・。それに、もともと、周防の大内、山陰の尼子に挟まれて、あまり名前ほどの活躍はしてないなぁ。」

「武田氏は、源氏の名家なのに、当の広島自体、あんまりそう広めておらんしなぁ。広島のど真ん中に居城があったのも、武田氏だし。」

「なんとなく、関東から来た武田氏の国であったと言いたくないのかもしれませんね。」

「それと、やはり、”安国寺恵瓊”のことがあるんじゃろうなぁ・・・。」

「恵瓊こそ、毛利に滅ぼされた安芸武田氏の御曹司であるからなぁ。」

「武田氏こそは、って宣伝すると、安国寺恵瓊に触れざるを得ず、なんとなく座りが悪いのかもしれませんね?」

「恵瓊その人は、戦国期きっての俊才の一人で、外交交渉に長けた傑物じゃけどな。」

「やはり、安芸の出自で、下克上を繰り返し、古代からの周防、長門、北九州の覇者であった大内氏を防ぎつつ、陶晴賢をやっつけ、東は、やはり名家の尼子氏を打ち滅ぼした毛利氏の方が、郷土の英雄には相ふさわしいですかね?」

「地元から出た英雄感あるからのう!www」

「やはり、秀吉の”毛利征伐”の時の、恵瓊の中途半端さ!秀吉の情報統制の見事さと、機敏な動きのみと解釈されがちだけど、京都に大きな地盤のある禅宗の名刹につながる安国寺の情報網が”本能寺の変”を伝えてなかったとは思えないですよね。」

「証拠はないけどな。」

「しかし、安芸・安国寺は、臨済禅・京都五山の”第4位”  東福寺の末寺ですよ。その上、恵瓊の直のお師匠、恵心は、出雲・安国寺から、京都の東福寺に上り、それを束ねるまでに出世した人物、情報が伝わらなかった方が不思議ですよね。」

「うむ、安国寺恵瓊は、最後の最後で、毛利に味方しきれなかった可能性はあるな!あまりそういう観点から、恵瓊を論じていることがないけどな。文献上の証拠は全くないからのう___。」

「文献上、安国寺恵瓊は、有能で忠実な毛利の外交僧ですからね。」

「恵瓊から見れば、毛利氏など、安芸吉田の農民出身のど田舎モノではあるよな。それが、武田氏の居城であって、子供の頃、父母と遊んだ「銀山城(かなやまじょう)(今の広島市安佐南区、今、”毘沙門天”のあるあたり一体)」を乗っ取って、守護づらしているのはコズラ憎いではあろうなぁ。」

「安芸吉田なんて、今でもホタルが飛んでて、沢にはオオサンショウウオまでいるど田舎ですからね!」

「まあ、だからこそ、強かったんじゃが。。。」

「信玄を出した、源氏の名門、武田氏も、安芸では大した人物が出ず、残念でした。」

「広島自体は、良い国なのになぁ・・・。」

「ところで、なんとなく一般には、源氏は関東、平氏は関西から西、ってイメージがあるんですけど、元々は天皇陛下の子供達ですから、どっちも機内が根拠地ですよね。」

「武田氏は、清和源氏の中でも、河内源氏の出身、新羅三郎と呼ばれた源頼光様が祖だな!」

「新羅三郎とは、穏やかではない呼ばれ方でもありますよね。正史には当たり障りのない記録のみでしょうけど、百済系であるところの藤原氏の娘の子ではなく、臣籍降下したのでしょうかね?」

「そうかも知れんな?永遠に謎じゃけどな。」

「まあ、この清和という天皇、および、そのお祖父様の桓武、お父様の嵯峨天皇の時代というのは、ものすごくキナ臭くて、もっと大きな事件もいっぱい起こっているますよねぇ・・・。薬子の変とか、応天門とか。。。」

「ああ、まだ、橘氏、菅原氏、大伴氏など、古代の蘇我、物部に繋がる貴族の最後のあがきがあった時代じゃなぁ((´-ω-`)トオイメ」

「覚えておいでですか?」

「妾、しがない婢女(はしため)であったけどな。薬子さまなどの頃はもうもう・・・・・・・。」

「清和天皇は、どんな方でしたか?」

「天皇様自体はなぁ。良いお子柄の人であったようじゃよ。ただ、この時代はなぁ、(藤原)基経様の力がものすごくて・・・。」

「確か、幼少の頃天皇位につかれたんですよね。」

「太政大臣、藤原良房の孫様であられたからのう。8ヶ月で、3人のお兄様を押しのけて、皇太子。そして、9歳で、即位されておる。」

「まだ、朝廷が実質的な王家であって、その上、政敵もまだまだいて、権力闘争が盛んな時期ですよね。」

「子供ばっかり作れと言われるのと、宮中での権謀に嫌気が刺したのか、30過ぎには、突然、譲位されていますね。」

「お父さんの嵯峨天皇は、50人の子孫が皇族として、名前が残っていますね。実際は、もっといたじゃろうな。あーあ、もう、男ってばっ。」

「嵯峨のお父さんは、有名な桓武ですね。この人から、京都が都になり、藤原氏の外戚政策が本格的に始まる。」

「桓武、嵯峨、清和と、側室に藤原氏の娘やその他の氏族の娘がガンガン入ってくるので、子供もバンバンできて、で、桓武平氏だの清和源氏だのが生まれる元になっていくなあ。」

「皇族系の貴族を増やして、対抗する意味も最初はあったのかも知れませんね。」

「が、宮中に残るのは、藤原氏の娘が母である者だけだから。。。」

「平将門なんて、関東で独立しようとしてる。」

「のちに、北条早雲を歴史的にインスパイアしたとも言われているけどな。」

「早雲も、室町末期の畿内の惨状を見かねて、関東に独立王国を作ろうとした人ですね。そして、それは、3代北条氏康で、ほぼ成功する。」

「早雲は伊勢平氏(桓武平氏の一流派)の出、じゃから下克上とか、言っても最初の頃は、貴族同士の内輪揉めじゃよ。」

「で、最初に戻りますけど、毛利氏は、鎌倉の大江広元から出ているんですよね。ほんとは。」

「系図は残っておるようじゃな。大江広元の4男、大江李光が神奈川の相模国愛甲郡毛利庄の荘園をもらって、その土地の名を苗字として使ったのが始まりだよ。大江氏は、出自がよくわかってないけど、京都の官人の子孫ではあるなあ。」

「京都を挟んで、関東と中・四国、また、九州に、そのタネをばら撒きまくっているなぁ、天皇家!って見方もできますね。」

「まあ、生物の究極の存在理由は、子孫を広く残すことだからなぁ。天皇家は、それをしっかりと完遂しておる。」

「生物の進化は、同じような環境においても、ほんのちょっとその時の環境にうまく適応できる祖先がいると、大きく差ができる時期があるからな。短期・中期的には誠にもって、理論通りじゃな。」

「長期的には、結局、多様性が効きますけどね。だから、四方八方遠くにばらまいて、在地の者とその土地で、豪族化するのも正しい。」

「最近の遺伝子、ハプロタイプ研究でも、日本列島は様々な時期に、大陸から逃げ込んできたり、とにかく、もっと南の島方面からなどからも、渡ってきた人種のるつぼだそうだよ。」

「大陸といっても、中国や韓半島には見られないタイプも、日本列島には存在しているタイプがいくつかあるらしいしな。面白い。」

「もっと、南回りでこの島に到達したグループとかもあるんでしょうね。」

「人のこの2、3万年程度の営みは、面白いわい!w」

「果ての島ってのは、環境的に人種のるつぼなんですね、本当は。」

「ただ、かなり古代じゃから、もう、見た目ほとんど変わらなくなっているのう。」

「不思議なことですね。」

「そうじゃな・・・。とりとめない話になったなぁ・・・・」

「で、どうします???」

「ん?関東に行こう、武蔵野から、武蔵の府中、そして、鎌倉街道を南下して、古道を辿って、”いざ鎌倉”の雰囲気を感じたい!!!」

「はい、では、準備、致します。」

「おう、任せた。」



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