遊牧民のお話
遊牧は、人類がある程度安定して食って行くための、大陸で発明された、装置の役割を果たした文明システムで、大陸レベルでの移動を伴います。コーカサス山脈のあたりをベースキャンプにして、羊や山羊を飼いながら、馬を使って、草原を移動し、パオ(包)というテントをはって生活する人々から発祥したとの説が有力に思います。これまでに書いたものでは、”遊牧民”=”野蛮人”的な書き方をしてきたのですが、遊牧のシステムは、古代においては大変、優秀な文明装置で、これに参加しさえすれば、不安定な古代において、ある程度安定的に生活できうるものだったと思っています。コーカサス系の白人種から、モンゴロイド系の黄色人種まで、様々な人々がこの文明に参加し、古代から、中世くらいまでのユーラシア大陸では、KINGsとして、様々な土地で暴れまわりました。この文章の目的は、異なる文明が触れ合うボーダーでは、お互いを野蛮人と罵り合い、戦争になりがち、ということを書くことです。
定住して行う牧畜とは考え方や規模において全く異なります。まず、ユーラシアレベルの大陸に豊富な草原が、あちこちにあることが前提です。古代では、人類にとっての大きな敵は感染症や寄生虫でしたから、低湿地や海沿いはあまり好まれなかったと考えられます。砂漠の近くは、人間にとっても、厳しい環境ですが、微生物もあまり生息できないですから、古代から、人類は高燥地のオアシスなどを求めました。(感染症は、現代においても、やはり大きな不幸をもたらすことが証明されてしまいましたが・・・。現代。)
イラン高原は、ペルシャの地ですが、コーカサスからも近く、此処には常に強い民族が陣取ってきました。アケメネス朝ペルシャは、紀元前の大帝国ですが、ガウガメラ、イッソスといった、マケドニアのアレクサンダー大王との戦いでは、そのペルシャ陣営に、スキタイの名が見えるそうです。スキタイは、コーカサス系の有名な古代の遊牧民です。西域からコーカサスにかけては、発掘許可をなかなかくれない国々が、現代では陣取っているため、調査が進んでいませんでしたが、古代のレベルで、スキタイとアジアの遊牧民たち(匈奴など)との交易の跡が発掘されてきているそうです。ヒッタイトは、いまのトルコが陣取っているアナトリア高原にいた古代の”鉄の民族”ですが、ヒッタイトとも鉄の交易があったらしい事がわかって来ていて、ワクワクしますね!匈奴は、漢代までの中国の歴史書には、度々、その精強な強敵ぶりで、野蛮な夷狄の代表として、出てくる種族ですが、彼らの鉄の武器が西から伝わった最新式の硬い鉄であったことがその理由の一つとして、考えられています。漢の高祖、劉邦は、垓下に項羽を下して、中国の中原を支配しましたが、鉄の強度のレベルが、匈奴と全然、違ったそうで、全く歯が立たず、匈奴には自分の娘を人質的に差し出して、匈奴王の側室とし、そのご機嫌を取りつつ、なんとかうまくやってました(そういう書き方は、漢書ではしていませんが・・・)。漢も、武帝の頃になると、裏ルートで、硬い鉄の武器を手に入れることが可能になったようで、自国生産も可能になり、匈奴を切り従えることができるようになったそうです。匈奴の方は、もともと遊牧民なので、強い敵がいるところには、執着なく、だんだん中国の側(そば)からいなくなってしまいますね。どうも、これの一部部族が、フン族として、アッティラ大王に率いられ、ゲルマン民族を侵略し、その大移動を起こさせた疑いが強いようです。(匈奴の”匈”は、古代の発音では、フンやフィンに近いらしいです。Hungary やFinland の綴を見ていると、それは、そうと信じたくなりますが、決定的な証拠というところまでは、まだ、ないようです。えっとつまり、ハンガリーやフィンランドの民の先祖が、遊牧民であることは間違いないようですが、それが、中国の歴史書に出てくる”匈奴”か?という話は、決定的な証拠までは、無いようです。)
司馬遼太郎さんは、その著書(特に、「街道を行く」などのエッセイ)の中で、度々、遊牧民について触れられていて、草原の民たちの営みに優しい眼差しを常に向けられていましたし、鉄の重要性についても度々、触れられていました。最近の発掘事実を生前にお知りになっていたら、また、違った物語を紡がれたかもしれないと思うと、少し、残念な気持ちもします。
今年のお正月には、”NHKスペシャル---アイアンロード---知られざる古代文明の道”が放送されました。(今見るとNHKのページがないですね!どうした!?!?)
遊牧は、その基礎に自然の草原の存在が必要ですので、農民を嫌います。せっかくの良い草地がある場所に、ある年、行ってみると、耕されていて、さっぱりワヤ!だったりすると、怒り狂うわけです。従って、農民は天敵であり、西域での漢と匈奴の戦いも、ムベなるかな?というところなんですね。異なる文明が出会うところ戦争があります。現代でも変わっていませんね。お互いがお互いを野蛮人だと罵り合います。残念なことですが、今しばらく、状況は変わらなさそうです。
遊牧民は、従って、農民の作業自体を嫌い、ばかにし、必要なものは、農民から略奪するのが普通になります。地面を引っ掻いて、作物を植え、収穫するものを下等民とみなすようになって行きました。異なる、宗教、習俗を持つものは、野蛮に見えるのですね。その上、その所業が自分たちの聖なるものに触れたり、それを破壊するとみなされると不幸が起きてしまいます。お互い様なのですが、中世までは、武力で圧倒的に遊牧民の方が強勢でしたから、大変です。モンゴロイド系のモンゴル帝国、トルコ系のオスマン、など、遊牧国家は、つい最近まで、強力な国でありましたよね。オスマントルコは、東ローマ帝国のビザンチンを支配し、東ヨーロッパのベオグラードまでは、完全に制圧していた時期もあります。ウィーンも何度も囲まれていますね。シェーンブルン、ホーフブルグ、ヴェルヴェデーレなど、ウィーンの宮殿は、皆モノモノしく石の壁で囲まれ営ますが、トルコがきたら篭っているためです。トルコは、パオ(テント)で暮らす遊牧民ですから、ウィーンの冬は寒すぎて過ごせず、亀のように引っ込んでれば、帰ってくれます。とは言っても、それは王侯・貴族の話であって、庶民、農民、商人などは、略奪され放題だったと思います。十字軍というのは、そういった略奪民を”買い戻す”ための軍隊だったようです。(いまでは勇ましく取り戻してきたかのように宣伝してますが、塩野七生さんの本なんか読んでると、大金持っていって、それと引き換えに返していただく、という何と無く情けない旅だった方が多かったみたいですね。それも、まだ、返してくれればいい方で、お金だけ取られたり、返り討ちにあったりも多かったみたい。武器が劣勢だった時期は仕方なかったみたいです。)西洋では、いまでも、人質ビジネスがありますが、歴史的に仕方無いようですね。
そんなこんなで、ラテン人も、ゲルマン人も、スラブ人も、武器への信仰はそう簡単に捨ててくれませんね、残念ですが。宗教戦争のように語られることが現代では多いし、もちろん、それもあるのでしょうが、異なる文明の触れ合うところの不信感と相互憎悪は、そう簡単にはなくなってくれません。日本列島は、戦いに敗れたり、そういう憎悪や権謀による殺し合いから逃げてきた人たちの最後の砦的に、人たちが色々なところから、集まってきたことが、最近のハプロタイプ研究(母かたは、ミトコンドリア・ハプロ、父かたは、Y染色体ハプロを調べる)からわかってきたりしています。私たちは、幸せな国民だったんですよね。
なんとか、次の平和な時代に早く、確実に移行してほしい今日、この頃ではありますね。
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