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ほんとのであい【赤めだか】声に出して、笑って泣いた



初めての落語は、この人から聴きたい。

この本の著者で 超がつくほどに有名な、落語家の立川談春という方に対して、以前からそう思い続けています。

自分にとって、そう思わずにはいられない 偶然の出来事が、

立て続けに何度か起きました。


それなのに、

チケットをとろうとすると何故か様々な事情が重なり、今日まで機会を逃しています。


この本を手に取ったこともまた、本当に偶然でした。

生で落語を聴くことが、ずっと叶わなかったのは、

もしかしたら、まず『この本を読んでから』という導きだったのかも知れないと、読み終えた今、思います。


そのくらい 運命を感じ、自分にとって生涯忘れられない作品のひとつになりました。

トップ画像の作品は、文庫版『赤めだか』です。

ご存知の方、たくさんいらっしゃると思いますが、解説を転載いたします。

『赤めだか』(あかめだか)は、落語家・立川談春のエッセイである。扶桑社の文芸季刊誌『en-taxi』の2005年春号から2007年秋号まで連載された。執筆を薦めたのは同誌の編集同人だった評論家の福田和也。当時のタイトルは「談春のセイシュン」だったが、2008年に同社から刊行された際に改題された。
物語は1984年に高校を中退、7代目(自称5代目)立川談志に入門してから、1997年の国立演芸場で開かれた第6回真打トライアル、そして真打昇進に至るまでの談春の苦難と葛藤を描く。『本の雑誌』2008年上半期エンターテイメント第1位を獲得。講談社エッセイ賞受賞。2015年、TBSテレビでドラマ化された。(Wikipediaより抜粋、一部加筆)



通勤のバスの中、

最近の愛読書は、この本でした。


自分がいま身を寄せてる地域は、車両通勤が殆どなので、都心のような朝のラッシュは ほぼ全く、ありません。

バスはいつも空いていて、二人がけに一人で座り、ゆったりと本を広げても、まだかなりの空席があります。


エンジン音だけが響く中、読みはじめた最初の部分は落語家を目指す少年の、将来への"道のはじまり"と、そこから続く"修行の日々"でした。


落語の世界に詳しく無くとも、『修行』という時期の厳しさ辛さ、思ったことが出来ない歯がゆさ、成果を追い求める気持ち、それが痛いほど伝わりました。


自分と一緒にするなんて、大変おこがましい事であると頭で分かっていながらも、ときには若い日を思い出して、泣きたくなる内容でした。


『気働き』、という、

最近あまり耳にしなくなった、けれども、とても大切な言葉が 本の前半の此処ぞという 重要な局面を、表していると思います。


そのようなとても厳しくて 辛い日々の描写のなかに、本当にとてもテンポ良く、"面白さ"が織り交ぜられ、それが不意に顔を出すので思わず笑ってしまいます。

真剣に読んでいながらも 何度もふきだしそうになり、もちろん、そこは堪えました。

どんなに没頭していても、実際ここは、とある地方の静かなバスの座席です。

しかし、『お願いです文字助師匠、五分だけ気絶してください』というくだりで、ついに吹き出してしまいました。


笑いの次の場面では、怒られたり、また怒られたり。反対に、怒られないけど、実はとっても怒らせていて、もうダメかという時に、かばってくれる人がいたり。


主人公の青年(談春氏)が、教わることのひとつひとつに緊張しながら仕事をする中、

人と人との血の通った関わりと、矛盾に寄り添う日々を読み、

まるで自分のことのように感じ、

心の奥の方にある熱が、戻ってくるのを感じました。


もういっそのこと忘れた方が、楽かも知れない、自分の熱意。

その小さな火が胸の奥に、まだ有るのだと感じました。

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物語は進みます。どんどん面白くなって。

前の座席の背もたれに、隠れる様に猫背になって、小さな声で笑って泣いて、読み進めていきました。


最後、真打になっていく場面は、読んでる自分も緊張しました。

筋を通して準備が進む、神がかり的な大仕掛けと、"縁"だけでは収まりきらない人間同士の大事な繋がり、

どの人にも立場があり、そこから発せられる言葉と、胸に迫る心の描写は、

どうぞ是非 本編で、お読みいただきたいと思います。




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忘れたくない高揚感が、読後感そのものでした。

愛情とは何なのか、

もしかしたら 人と人との間にある"真の愛情"というものは、こういう事なのではないかと、思う場面がたくさんあり、

後半からラストにかけては、涙せずにはいられない、とても素晴らしい展開でした。





名作に出会えた喜びと同時に、途中から、自分の無知を恥じる気持ちも抱えながら、読んでいました。 

この作品を"知らなかった"という、事実を恥じる気持ちです。


冷静に考えて、2008年の本なのです。発売当時大ヒットし、ドラマ化もされています。


それなのに、触れたことが無かった。


何故と考えるまでもなく当時、

つまり14年前の自分では、到底わからなかったのです。

一言で言うと鈍感だった。


もしも偶然 読んだとしても、多分理解できなかった。

そして、

辿る人生によっては、一生わからなかったかも知れない。

それを強く自覚しました。



もし何も考えず、

変化を恐れて暮らしていたら、

年令だけが重なっていき、考え方が頑なになって、ますます新しい感動から遠くなっていたかも知れない。


そう考えると『間に合って良かった』と、心から、思います。

今ならまだ、自分は元気で、落語を聴きに行けるのです。

何より以前と違うのは、この感動を 携えて行けます。


いまの自分が、

作品と巡り合うだけではなく、その素晴らしさに気づく事ができ、幸運だったと思います。


そして、この様な感動が、

生きることの素晴らしさ、そのものなのかも知れないと、今だからこそ思いました。


生き続けていたからこそ、時間とともに変化して、いま、巡り合うことが出来た。



14年も遅れましたが、

大きな感動だけではなく、大きな気づきも与えてくれた、


この素晴らしい作品に、


いま、心からの感謝を

捧げます。


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