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「賤の苧環」のこと。

放置していたnoteですが、今度踊ることになった『賤の苧環』のことをちょっと書きますね。

オダマキ

ぜにのいもかん、ではなく、「しずのおだまき」と読みます。苧環は小田巻とも書き、しず(倭文)という布を織る麻の糸をくるくる巻いた糸巻きのことで、「繰り返し」などを導く序詞として用いられた言葉です。

長唄 『賤の苧環』は、源義経の愛妾であった白拍子・静御前(以下、静)が、鎌倉殿こと源頼朝の命令で舞を披露した時のエピソードを舞踊化したものです。

白拍子(しらびょうし)とは、平安末期から鎌倉時代にいた芸能者で、当時流行していた歌謡曲「今様」を謡いながら踊るダンサーです。立烏帽子、水干に太刀という男性の装束を身に付けていたので、いわば「男装アイドル」でしょうか。中でも静は、京の都で大人気のトップアイドルでした。

静と義経の物語

兄・頼朝を助けて源平の戦いで大活躍し、壇ノ浦(山口県下関市)で平家を破った義経は、次第にその兄に疎まれ、謀反人として命を狙われます。逃げる義経一行は吉野山(奈良県吉野町)で匿われ、静と義経はこの地で最後の数日間を共に過ごした後、離れ離れになります。そして京に帰る途中、静は頼朝の家来に捕らわれ、心ならずも鎌倉(神奈川県鎌倉市)までの長い旅路に就きます。

この時、静は義経の子を身籠っています。生まれた子が男ならば、即刻殺される運命。自分の身もまた、どうなるか分からない。

そんな中、憎き頼朝の眼前、その権力と栄華の象徴ともいえる完成したばかりの鶴岡八幡宮で、彼を称えるべき奉納舞を舞え、という命令。屈辱的な状況です。

しかし静は、堂々と愛する義経への思いを朗々と歌いながら、舞います。

よしの山 みねの白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の雪を踏み分けて消えていったあの人の足跡がすごく恋しい)

『吾妻鏡』

しづやしづ しずのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(しずかしずかと、何度も私の名前を呼んでくれたあの頃。おだまきみたいにくるくると、昔を今に巻き戻せればいいのに)

*解釈はこちら参照。『伊勢物語』の歌の本歌取りでもある

当時を記録した歴史書『吾妻鏡』には、「梁塵も動かす」ほどの名演だったと残されていますが、それにしても強烈な煽り!2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見た時も思いましたが、この時代の女性の強さ、というかむしろヤンキー魂が炸裂していると感じます。

当然、頼朝はブチ切れますが、そこを妻である北条政子(いわばヤンキー女子のてっぺん)が諫めます。貴方が伊豆で流人であった頃の私と、今の静は同じ。彼女は素晴らしい貞女で、その心意気は賞賛すべきである、と。静は許され、卯花重という衣が贈られたそうです。

長唄『賤の苧環』歌詞

この出来事は鎌倉時代初期、吾妻鏡によると文治2(1186)年4月初めとされていますが、この長唄はずっと新しく、明治41年(1908)年、東京数寄屋橋の劇場 有楽座の会場祝賀曲として作られました。

吉野山 峰の白雪踏み分けて
峰の白雪踏み分けて 
入りにし人ぞ 恋しき

恋衣 いとど露けき旅の空
身の終りさへ 定めなく
東路さして行く雲の
箱根を後にこゆるぎや
はや鎌倉に着きにけり

「これは静と申す白拍子にて候」
さてもこの度 鎌倉殿 ご所望にて
「わらわに一刺し 舞ひ候へとの
御事にて候」


思い出づれば 在りし世の
栄華の夢や ひと時の
花に戯れ 月に舞ふ
さす手引く手はかはらねど
かはる浮世のうきふしを
忍び兼ねたる時の和歌

★★

しづやしづ しづのおだまき繰り返し
昔を今になすよしもがな
知勇優れし 我が君の
そのいさほしのかひまさで

(鎌倉山の星月夜 いつしか曇り思はずも
千代を契りし仲つひに 遠く隔つる雲霞
かかる浮き身ぞ) 

ただ頼め しめじが原のさしも草
我世の中に あらん限りは守らせ給へ
君の行く末

昔を今に返す袖 
小田巻ならで玉の緒の
絶えなばたえよ誓いてし

清き心を白拍子とは
誰が名付けけん語り草
大和撫子敷島の
直ぐなる道にあい竹の
節面白き今様を
またくり返し謡ふ世の
深き恵みぞありがたき
深き恵みぞありがたき

「 」は立方の科白。★★で舞台転換と衣裳替え。( )は今回の演出で省かれる個所

作詞:「演芸画報社」の同人、作曲:五世杵屋勘五郎

静のその後

*追記予定