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車いすテニスイベントへの想い

車いすと健常者のテニスイベントは、昨年7月30日付けで38年と4か月間勤めたサラリーマンを退職して自分自身の新たな挑戦であったと振り返っています。
そのキッカケは、ある一言から、昨年11月に松川東大阪市議会議員とテニスコートについてお話をした際に「障害者と健常者が一緒にスポーツを出来るコート、ウィルチェアスポーツコートを花園中央公園内にあります」の言葉からでした。「テニスは、まだ一度もやったことがないんですよ」と松川議員の更なる言葉に、私の口からは「それでは車いすテニスイベントを考えてみます」と頭で考えることなく言葉が口から出ていました。その時のことを思い出すと使命感を感じ、もうひとりの自分が勝手に言葉をにしていました。「出来なかったらどうしよう」「そんな事は無理じゃない」逃げ腰の自分は居なかったんです。
新たな挑戦、次の仕事はアスリートへのセカンドキャリアキャリア支援を天職にしたいと東京から東大阪市に戻り動き始めていた頃。「支援」イコール「車いすテニスイベント」の言葉が、頭ではなく身体を動かしていたと思います。

そして、アスリートへのセカンドキャリア支援を仕事にしたい本当の意味がわかったんです。それは1995年6月16日の27年前の出来事でした。場所は、東京千駄ヶ谷の故中村清監督(早稲田、SB食品監督)のご自宅で、奥さま道子さんからの言葉でした。「まだ30歳ですから、いろいろな人に会い、自分に吸収してそれで自分を燃焼していく、しかしある程度歳をとれば自分で燃焼していける力をつけなければいけません。そして自分が燃焼していることを、みている人が燃焼していくような人にならなければいけませんよ。」との言葉です。中村ご夫妻は陸上競技選手に全身全霊で向い、人生を陸上競技に関わってこられた神様のようなご夫妻です。
「私にも出来ることがある」。「人の心に灯を灯していける」。そのことが引退をするアスリートの伴走者となれると心に決めたことでした。

中村監督


車いすテニスと健常者イベントの話しに戻りますが、私の車いすテニスとの出会いは、10年前の2012年10月に大阪市長杯ニューミックステニス大会(車いす選手と健常者がペアーを組むダブルス)の参加でした。当時を思い出すと「車いすに乗っていても、何で俺より速く動くし、テニスは上手くて敵わないよ」と言葉を出していたことを覚えています。
なんで私達を「健常者」と呼ばれているのかもです。同じコートに立って遠慮なく、障害なんて物ともせずに戦う姿に素晴らしさを感じ、その経験が今でも鮮明な記憶として残ってます。
この経験が、東大阪市のウィルチェアスポーツコートで車いすテニスイベントとして広げることが出来るんだ、やるんだと使命感が私を動かしていました。

坂元さんと 大阪市長杯 - コピー (3)

12月25日のイベント当日は、風が強く時々雨も降るような天候でしたが、車いすテニス選手5名と一般イベント参加者13名、それからレッスンを教えてもらったツアープロ選手2名でのイベントです。
一般人と車いすテニス選手が一緒になってのツアープロのレッスン、ニューミックスの試合、最後に車いす選手より一般参加者が車いすに乗ってテニスを教えてもらう、コートの笑い声、笑顔が溢れている盛り沢山のイベントとなりました。


最後に、車いすに一人でも多くの方が、関心を持ってもらい気持ちが分かり合える世界。広く考えれば障害者に関わりを持てる社会です。イベントを通じて伝えられたらと。

健常者テニスイベント6 - コピー (2)


イベント開催にあたり、車いす選手の皆様、大前会長様、イベントレッスンプロの細木祐佳プロ、イベントアシスタントの高畑寿美先生、共催のヤルデテニス様、reset_tokyo様、TUTC様とイベント参加者の方々、東大阪市松川議員、馬場議員、市役所職員の方々、本当にありがとうございました。

健常者テニスイベント7

次は子供達に車いすテニスの素晴らしさを広げて行けたらと、夢を膨らませています。

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