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仕組みのオハナシ : 5.思考も自我もあってこその世界であり

4.思考?自我?
の続きのお話しです。

眠りから覚めるとき、何らかの体感覚で目が覚めます。目覚し時計の音だったり身体がどこかにぶつかった刺激だったり。

今朝は雨音で目覚めました。
ふわぁんという一瞬のまどろみがあり、すぐさま「思考」が動き出します。
雨音を聞いて「そういえば台風どうなったかな。雨結構降ってるっぽいな」と思いが湧くと同時に外の車の音も耳に入って来て、見慣れた窓の外に雨が降ってる景色が感覚としてイメージされます。身体はまだ布団のなかです。目もつむったままです。この時既に「自分の外の世界」が創り出されてます。と同時に、身体は布団の中で心地よいぬくぬく感を感じてます。「身体の中の感覚」を感じると同時に「身体の外」から音が聞こえてるという「意味付け」で「外側の世界」が無意識に出来上がっています。身体は目覚めた時と同じ状態、布団の中にいて目は閉じたままです。目覚めて思考が動きだした瞬間、「自分の世界」が現れます。
この後は 目を開ける → 自分の部屋を認識する → 今日は休みだという思考が湧くと同時に布団の中で手足が動き固まってた身体をゆるませる → 雨降ってるなあと思考が湧く など体感覚・思考らが一斉に色んなものと紐付けされながら動いていきます。
そしてそれらは全て「ことば」を介して「意味付け」されたもので出来上がっています。イメージ、創造です。
今朝目覚めた時、その瞬間実際起きてる事は 「身体が布団の中で、目を閉じている状態」が体験してることです。それだけの事なのに、思考の方では様々な世界の創りが開始されますので、全く忙しいです。
私はまったりしてるのでその後もボーッとしてる事が多いですが、人によってはもうその目を閉じたままの時から「今日はあれをやらなきゃ」「あれはどうなったんだろう」とか心配事とか「やらねば」が始まっているかもしれません。実際その時起きているのは「身体が布団の中にある」だけなのに、です。心配事や「やらねば」は意識しなくても身体のどこかがぎゅっと緊張しますから、そりゃあ朝から疲れるわけです。それらは全て意識しなくても行われてることです。
たった「布団の中で目が覚めた」だけでこれだけの事が現れてます。さあ、その日1日、1時間、もっと短い間でもどれだけのものを感じイメージを創り出しているのでしょう。どれだけ「思考の、自我の、世界」に住んでいるのでしょう。自分がやってると「思って」いること、実際「身体が経験してること」は何なんでしょう。「いま、目の前に現れてる世界」は何なんでしょう。


「とりあえずの大前提」でお話ししたように、この身体「身体システム」・「思考/自我意識」・「魂/本来の自分(の声)」で ″人間として生きる″ ということが成り立っています。
なにをしているのか?
あらゆる「生きるという経験」をしています。
「経験」は、どこかへ行ったとか何かを学んだとかそういったものだけでなく、嬉しい・悲しい・安心する・怒るなどの「感情」も「経験」です。すべてが経験です。そして、その「経験」はこの身体システムがあるからこそ出来る事です。
あらゆる事を経験するために生まれてきています。その「経験」に善し悪しはありません。
善し悪しを判断してるのは「思考/自我」です。それをしたことで「身体がほわっとゆるみ、何かあたたかな感覚」を「経験」したことが「嬉しい」と(その人の中で紐付いていれば)「嬉しい経験した」ことになります。
それをしたことで「身体がどこか緊張し、何か嫌な感覚」を「経験」したことが紐付けから″善くない″ となれば「悪い経験をした」と「思考」が湧いてきます。「経験したことそのもの」には善し悪しはありません。でも「悪い経験をした」と思った、という「経験」をこれまたしてるわけです。ややこしくなってきましたね。

常に「経験」しかないです。
それを楽しくさせてるのが「思考/自我」の働きとも言えます。「自分がしてる」と思うことで「自分だけの世界」が輝き、「自分がした経験」が更にパワーアップして感じられます。
「自分以外の他の人」がいると思えることで「比較」が生まれ「自分というもの」をみることができます。これ、気が付いた時には「自分以外の人」がいるから当たり前になってますが、よくよく考えるとスゴイ事なんですよね。「自分以外の人」がいないと比べようがないから「自分」のことなんて気にしようがないですから。「比較」することは「なんで自分はこんななんだろう」と悩んだりするのでよくないように感じるかもしれませんが、それは「悩むこと」は身体がちょっと重く感じるので「よくない」と意味付けインプットしてるだけであり、「悩む」という「言葉」そのものには善し悪しはなく、笑っちゃうのは悩まないと「悩むという経験」は出来ないですから。
「経験するために生きてる」のは「悩んでいる」のも経験ですし「悩んでいるのはよくないことだ と思う」のも経験です。自分が「よい」と思っている事を体験できたことだけが「経験」ではなく「善い悪いを判断してる」ことも経験です。
ね、すべてオッケーなんです。
やっていること、感じてること、考えてること、すべてそのままでオッケーなのです。
そう思えないよう頑張っているのが「体感覚と言葉(意味付け)を紐付けて自分が何かしている」と感じさせる自我や思考の仕組みであり。

ちょっとだけ今までのお話しをおさらいしてみると。
・人は身体システムありき
・あらゆる物事は「意味付け」して取り入れてる
・「好き嫌い 善し悪し」の判断は目の前の現象に対してではなく、それに対して起こる「身体の緊張やゆるみ」を感じるから
・思考/自我は体感覚と感情と身体各器官からの情報を紐付けストックし「自分」を守るためにフル活動している

「思考/自我」は「自分というもの」を守ること、よりよくしようとするハタラキです。
1.で「すべてはひとつ」みたいなことをさらーっとお話ししましたが、そのひとつなるものが「分かれている」という設定で「色んな生きている経験」をしてます。「分かれている」と思い感じることで色んな経験をしてます。
自分ー自らを分ける。
自我ー自分だということ。
自我のハタラキー自分を守りよりよくする。
そして、思考も自我もエネルギーであり湧いては消える。全部エネルギーの動きなのです。
「自我ー自分だ」という思いも、常に何かしら考え、何かしら良くしようと忙しいからなかなか感じられにくいですが、日々の中で「自分だ」と頑張ってない時も沢山あるのです。
ただ、「何かをしようとしたり考える」ということは、つまりはこの自我が働くということなので、感じにくくなってるだけなのてす。

今まで「自分がしている、生きる、という経験」を沢山してきました。これからもしていきます。その「自分が生きて経験している」ことを満喫するために、たくさんの「自分とは」や「これはこうである」といった″当たり前という概念″や枠組み、縛りのようなものを知らずのうちにまとっています。そう聞くとなんだかたいそうなものにも聞こえますが、それらも全部エネルギーです。ただ、ずーっと繰り返して掴んでいるのでそのエネルギーがふわーっと流れるのではなくそこで固まってしまって流れにくくなっているだけです。本来エネルギーは流れ動いてます。すべてのエネルギーが。形どってみえるものは、そのエネルギーがそこで固有の動きをし、この身体システムの各器官を通して見聞きし感じるという経験で「物がある」と紐付けインプットされてるだけです。それはこの「身体」も同じことです。すべて、全部がエネルギーです。
ただこの「全てがエネルギーという目線」だけで自我についてにしろ何にしろ話そうとすると、お話しが成り立たなくなります。これもパラドックスでありカラクリのひとつです。

様々な経験を楽しむとともにまとってきたこの当たり前やこだわりのようなものですが、それをまとってる分重く感じます。「こだわってたものを手放したら楽になった」とか「当たり前と思ってた事がそうでないと気付いたら他にも目が向くようになった」とか聞くことあるかも知れませんが、まとっていた重いエネルギーが流れるようになった分そう感じますし、そもそも流れているものへの抵抗も少なくなり楽に感じます。
当たり前やこだわりのようなものは、自我のハタラキにより「この時はこう感じてこの体感」という紐付けされたものがその場に現れ、それを「自分が思っている」としているときです。
そしてそれらはエネルギーです。
1つだけでなく色々絡まっているので、それらをほぐして、紐付けもほどいていけば流れていきます。
ほぐす・ほどくというのは、元々意識せずまとっていたものですから「見つける、認める」だけでやわらぎます。「気付く」ということばでもいいかもしれません。少しずつ認め少しずつ気付く事で少しずつゆるんでいきます。

「わかった。なら、実際どうしたらいいんだ」
「そうか、ほぐして気づいていけばいいのか」
湧いてきたのではないでしょうか。
それが「思考/自我」のハタラキです。大丈夫、正常運転しています。
ここでまたややこしいのが、何を文字で現そうとも、何を言葉で話そうとも、すべて「身体システム」を通してやることで、つまりは即座に「思考/自我」が働き紐付けるということです。
これはもうそういう仕組みだから、設定だからとしか言いようがありません。そういうものだから、です。

頭で分かったと思うことは、理解するということは思考です。知識です。知識ももちろん経験をする上で必要です。でも掴んで持ち歩くものではありません。「知っている、知った、分かった」という「こだわり」が、思考/自我を強固させるのにも繋がります。そうではなく。
腑に落ちる という感覚。何だか分からないけどストンと納得するような。「ああ。」というその感覚。理屈ではなく、腑に落とそうとして落とせるものではなく。ただ、腑に落ちた時に身体のどこかがふわっとゆるみ、力が抜けスーッと楽になるような、そんな感覚。
ゆるむぶん思考/自我のハタラキもおとなしくなります。ゆるむと流れもスムーズになります。
そして、自我が頑張っていた分そこにいつもあるのに聞こえづらくなっていた本来のタマシイの声も気づきやすくなります。

思考/自我のお陰で「生きるという経験」が味わえ、色んな世界を創り出せ、いまこの瞬間も楽しんでいます。経験しています。
それぞれが創り出している世界に優劣も善し悪しもなく、経験をもとに現された世界を経験してます。それでなにひとつ問題はなく、それぞれの好む世界で楽しめばよく、今回のようなお話しを聞いたからと言って自我が消滅するわけでもなく、怒らない穏やかな日々に変わるわけでもなく、現れてくるものは何も変わりません。

それでもこの「思考/自我」のハタラキで目の前に現される森羅万象は美しく不思議にみちあふれ、「自分」という感覚がゆるんだとき、この森羅万象の一部である人の現れの不思議さ、素晴らしさにただただ驚くばかりなのです。

仕組みのオハナシ : INDEX

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