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仕組みのオハナシ : 8.「ほぐして」みたら、で?

7.「思いの滞り」をほぐしてみたら
の続きとなります。

7.で言葉や名付けは色々あるけど、実際その時起こっている事はこういうことですーみたいなのをお話ししました。
「カルマ」や「インナーチャイルド」「トラウマ」と言われてる事がどーのということではなく、その「 」の中は自分の中で意味付けした言葉のイメージだから、そこだけを固く掴んで苦しんだり自分を責めたりするのは多分ちょっと勘違いだから、ゆるめて楽しんだ方がいいよーということです。
で、実際あちらこちらに紐付いてる仕組みをお話ししたのですが、ゆるむとどうなるか、というのが今回のオハナシです。

7.の後半で仕組みをほどくお話しをしました。
「紐付いてたんだなーと分かったらそれでおしまい」と言いましたが、確かに気付く事で滞りはゆるむので楽になります。
じゃあ一旦ゆるんだらもうその嫌な思いはしなくて済むのかというと、残念ながらそんなことはありません。きれいサッパリ忘れられる、という事にはなりません。
そもそも「忘れられる」と「思う」のは「自分が忘れる事が出来る」という「自我」であり、そこらへんは3.あたりを参照していただくとして。

ゆるみ出すと何が起きるかというと、同じような状況になった時、自我の紐付けでまた同じ感情や体感覚は湧くし感じるのですが、まず当初ほど「思考の渦」に巻き込まれなくなります。そして都度「体感覚」と「感情」を確認するにつれ「体感覚」と「感情」の紐付けもゆるんできます。そうなってくると「体感覚」要はその時瞬発に起こる身体の緊張がどんどんほぐれて嫌な体感が薄くなっていくので、自然と「嫌」という感情も薄れていくのです。その体感が嫌だったわけですから。
で、「思考」のほうは別に記憶が塗り替えられるわけではないので、そういうことかあった、という記憶として残りますし、何らかの拍子にまた出てきます。出てきますが、その時以前の紐付けはされてないので、「不安」とか「嫌だ」とかそういった感情は湧かなくなりますし、身体を重くするような体感覚も起こらなくなります。
もちろんそうなるまでには何回も「観る、感じる」というのをやらなければなりませんが。だってずっと知らずに握りしめてきたものが、そんな簡単に一気に無くならないです。それだけ繰返ししてきたことですから。
だいたい1、2回やったあたりで自我/思考が「やっぱり無理なんだよ」とか「全然変わってない!」とか騒ぎます。まだそのあたりでは体感覚もそんなにゆるんでないですから、そのまま自我の、つまりは本当はそのままほおっておけば消えていく「思考」を「自分が思っている」に乗っかってまたイメージの世界を広げていきます。
思考は必ず湧きますしその瞬間は巻き込まれますが、そこでちょっと踏ん張っていただき、「思考だ」と気付いたらその「思い」を「眺める」ということをやると、どんどん「思考」と距離があいてくるので、巻き込まれてる時間も短くなり、その分ゆるんできます。

で、前もどこかでお話ししましたが、これを「そうなんだー」と理解してしまうと「自分は分かった」となり、これまた自我のハタラキに乗ってますので。
やるしかないです。試してみるしかないです。
「言葉」で分かってるうちは全部「頭の中のイメージの世界」を広げてるだけです。
なんせ何知るにもこの「身体」を通して「言葉や文字」で知るわけですから、そこには瞬間作動の自我紐付けが全てに働いてますから。
ただ、ほぐれていく過程でどうしてもその時の体感覚をまた感じますので、あまりに深く滞ってる思いや感情は取りあえず置いといて、もっと軽そうに感じるものから「観る」というのをやられた方がよいかもしれません。
いわゆる「トラウマ」と呼ばれる中には、ゆるんだことによりフラッシュバック的な思いをすることもあるからです。仕組みとしては同じです。そこは変わりませんが、あまりに固く閉ざしていた場合、そのフラッシュバックにより瞬間にまたその時の思考へ戻されます。なので、初めからそういうのにトライするよりかは、もう少しほどきやすいもので実感した方がよいのかもしれません。
やった方がいいと言っておきながらですが、結局「自分には出来ないんだ」と自分を責める方向に自我紐付けがされてしまうからです。

ちょっと私の事を例にお話ししてみます。
私は「言葉で人から操作されるのが嫌」でした。過去形なのは、既にゆるませて「そうだったのね」と腑に落ちてるからで。
これ気付いたのは結構大人になってからなのですが、どうやらかなり子供の頃からからそうだったみたいです。まわりの子供はそんなこと意図して言葉を言いませんから大丈夫なのですが、大人が本心ではなく何か含んで私に言ってきた場合。それがどんなに笑顔でも、優しい言葉遣いでも、私は瞬時に反発をしてました。例えば「あなたは○○委員だから分かっていると思うけど」という先生の言葉。この言葉には「その役目だから私の言うことは聞けるでしょう」が含まれていて「違う」ということは先生という人に対して言いづらくさせており。
子供の頃はそれが何なのか分かっていないので「なんとなく気分悪い」程度ですんでいたのですが、大人になってからもなんか似たようなケースで自分が瞬間沸騰するんですね。相手ももちろん違うし、環境もシチュエーションも全く違うのですが。もうそれまでに何十回何百回と繰り返してるので、いくらアホな私でもいい加減よく分からない違和感に気付くわけです。「なぜ私は今言われたことでここまで腹が立つんだ?」と。
初めは「またあの人はあんな事を言ってる。何であんな言い方しか出来ないんだろう」とか相手に対してやたら怒るわけです。でもその相手が同じ人ではなくても、似たような言い方をされると腹が立つわけです。でも同じ事をもっとストレートに言われた場合、それがたとえキツイ言葉であっても何故か腹は立たないのです。
初めは「相手が悪い」と思ってたのですが、ここらで「言われてること」に目が向きます。「誰が」ではなくなったんですね。その時点で外側に向いてた視点が内側に向きだします。言われてることに対する「自分の反応」に共通性があるのか見だしたんですね。だって相手は違うのに自分は同じ反応、同じ感情がしてるのですから。これが「好き」とか「嬉しい」とかよさげな感情だったらこうはならないのです。嫌だから、自分が気持ち悪いから目を向けるようになったのです。まあこれも「いま思えば」の話ですが。当時はそんな冷静になってはいられませんから。
「なんでこの手の言い方をされるとムカつくのか」「なんでいつも私は同じ反応をするのか」と起こる度に繰返しモンモンと考えてました。その間とうぜん「自分を責める」時期もあり。「なんで自分はこんなことで直ぐ怒るのを直せないんだ」と。それらを経たうえで、ある時ストンと思い出したんですね。
「ああそう言えば、うちの親はそういうものの言い方をする人だった」と。でその時また自我紐付けが働きます。「ずっとその環境で染み込んでるのだからもう直せないのか」と。
これもいま思えばですが、ずっとモンモンと繰り返してた作業はどうやら過去の記憶のまさぐりをしてたようで、いわゆる「インナーチャイルドを癒す」手法のひとつである記憶のさかのぼりだったり「トラウマ」と呼ばれるものの要因を突き止める作業を無意識にしてたみたいです。当時はそんな言葉すら知りませんでしたが。
ストンと気が付いたあと暫く自我紐付けにはまって落ち込んでましたが、段々その状態自体に嫌気がさし、過去の環境にいまなお縛られてる自分に今度は腹がたってきた(これは私独自かもしれませんが)ので、「もうやめる」と決めます。
この時「思考は湧いてきてるだけ」ということを体感として分かっていたので、先ずはまた怒りが湧いてきた時に「思考」を見送るだけをやります。身体は怒りの感覚持ったままです。仕組みはまだ分かってませんでしたから。とにかく「思考」をなるべく遠くに離しました。
何回か繰り返すと「思考を見送る」作業が慣れてきます。「くっそ、また出たなー」と身体は別のことしながら「思考を追い続けない」をやります。その頃「モヤモヤは遊び感覚で引っ張りだしちゃえばいい」とどこかで見聞きします。手当たり次第やってみます。思考はほおっておいて、今度はモヤモヤを感じるあたりに手を当て、まるでモヤモヤを引っ張り出すかのような仕草をして出したモヤモヤをぽいっと捨てます。今は「手放し」とか呼ばれてるみたいですが、面白いことにそれをやるとなんだかモヤモヤしてた所がスッキリします。それを繰り返します。同じ状況で怒りが湧いたとき、「思考」を見送り、同時にモヤモヤをポイする。
段々ゆるんでいったのか、いつの間にか「言葉で人を操作する」のをされても「ああ、そういうパターンか」と怒りが湧かなくなり普通に対話出来るようになってました。
一瞬反応はするのです。紐付けはされてますから。でもモヤモヤする体感覚は出ませんし「それが怒りだった」と認識したので怒りも湧かず。
面白いことにそうなってくると、あれほど嫌気を感じていた相手が、その手法で話をしてこなくなるのです。だから益々私は反応することがなくなり、楽になります。人間関係もスムーズになります。
目の前の環境はそうやって変わっていきました。仕組み的にはこの時点でもうほぼほぐれてます。そうなるともっと面白いことがおきます。「いま」の状況が変わったのですが、もう紐付けが解れてるので、過去の要因だった親への事がゆるんできます。「なぜあんな言い方しか出来ない親だったんだろう」だったのが「そういうやり方しか知らなかった人」と思えるようになります。過去への見方もゆるむのです。ゆるんだから過去の見方が変わったとも言えます。で、ここで思い出して頂きたいのが「過去の記憶」もぜんぶ「思考」だということです。家族や身内が絡んでくるとなかなか「思考」が離しにくいのですが結局は「親にああされた」という記憶、「思い」も思考なのでその時何らかの紐付けで湧いていただけなのです。ほおっておけば消えていくのです。
ちょっと逆説的にもなっているので分かりづらいですが、まとめてみます。

◾「言葉で人を操作する環境」で育った
・同じやり方で話をする人に怒りが湧く
・その時感じる「モヤモヤする感じ」が「嫌い」と紐付けられ「怒り」という感情とも紐付けられる。

◾「思考」を追わず、眺めてるだけにする
◾「体感覚」を感じそこに有るというのを認識する。
・「思考」から少しずつ離れるようになる
・思考に巻き込まれにくくなり、その時の自分の体感覚に目が向けられるようになる
・遊び感覚でモヤモヤしてる体感覚を掴み出して放り出してみる(なんかスッキリした気になる)
・体感覚が薄れる事で「怒り」の感情も薄れていく(紐付けがゆるんでいくから)

◾嫌な手法で話してくる人がなくなる
・あったとしても紐付けゆるんでるので「それが嫌なこと」として自分が反応しなくなる

◾要因だった過去の出来事への見方も変わる
・自分を縛っていた「意味付け」もゆるんだので、違う角度から過去の同じことを観れるようになる
・相手だけが悪いと思っていた事が、それ自体が「自分の思い込み」でもあると感じられるようになる
・「意味付け」も「自分の思い込み」も「考えてること(思考)」であり、湧いては消えるものだと思い出す。
特別掴んでいた過去の記憶も、『いま、それを考えてる』だけなので思考。ほおっておけば消えていく。渦中はそう思いにくいが。

目の前の不快だと思う出来事に対して、「状況が」とか「○○さんが」とかではなく、『紐付けされている体感覚と感情をゆるませる、ほどく』と、目の前の事が変わってきます。
これは、エネルギー的な視点で見れば「自分のエネルギー(振動)が変わったので、共振する(同調する)エネルギーも変わった」となりますし、やわらかく言えば自分の掴んでいたもの、思い込んでいたものがゆるむことにより同じことが起きても自分が同調しなくなったとも言えます。よく聞く「自分が変わればまわりも変わる」みたいなのも同じかなと。

「いま」の目の前の現象に対して「紐付けをほどく」をしたわけですが、『紐付け』はぜんぶ "過去の経験" と紐付いてます。
なので、ほどいているのは実際は
「過去の経験」です。
「過去の経験」紐付けをほどいたので、もちろん「その時の過去の経験」もゆるみます。経験自体がゆるむ訳ではありませんが、紐付けされていた「感情」がゆるむので、その時の相手なり状況なりに対しての「見方」がゆるみ、変わります。
つまりは、「過去の記憶」が変わるのです。

いま」目の前で起きてること(現象) に対して自分が何らかの反応をして「紐付けを外す」
ということは
過去の経験・記憶」をゆるませること
です。

つまりは

いま」目の前で現れてる現象は
過去の経験・記憶」ということです。

「体感覚」は「いま」感じてることですが
紐付いてる「感情」は「過去の経験・記憶」です。
目の前で起きていること、人に対して
「自分はこう思っている」と感じてますが、
いまの目の前出来事」に対して反応してるのは「体感覚」だけで、「感情」と「こう思っている(思考)」は「過去」の事です。

そして3.でもお話ししたように、「自分の世界」は「思考」による言葉の紐付け、創造、イメージで広がっています。

7.でお話ししたように、紐付けされているのはバラバラなのです。
「自分でしていることは全部繋がっている」と思っているのでややこしいのですが。
なので、まず暴走する「思考」と少し距離置いてから、「体感覚」を見つけ「感情」も分かれば紐付けがゆるみだし、結果、過去の記憶などもゆるむことになるというわけです。

どうしても『目の前の出来事(現象)に対して「どうにかしたい」と思っている』と思うので、どうすればよいかと方法を探します。
仕方ないのです。でも違うのです。
「どうにかしたいと思ってる」のは「自我」なので、自分の本来の声とは違うのです。
自我も思考も "湧いては消えるもの" です。
そこをつかまえておく必要はないのです。
それを「自分が思ってる」としてるので本来の自分の声が聞こえにくくなってしまうのです。
本来の自分の声というのは、理屈抜きの感覚です。「あれこれ考える」のは思考です。自我です。思考も自我もあっていいのですが、キツイ・苦しい時は、一旦距離を置かないと「思考/自我のハタラキ」に巻き込まれて出られなくなってしまうように感じるのです。

そしてその「巻き込まれてる」のは「いまの出来事」に巻き込まれてるのではなく、「過去の経験・感情」に巻き込まれてるだけなのです。
そこがどうしても分かりづらいところなのです。カラクリのひとつなのです。

「過去の経験・感情」に巻き込まれているということは、「いま」を楽しめないのです。
「いま」目の前で実際起きていること、現れていること、その素晴らしさ不思議さに目を向けることが出来にくくなってしまうのです。

本来の自分の声は理屈ではなく感覚です。体感覚は「いま」感じている事です。
「過去の経験・感情」に つまりは「思考/自我」の世界に 本来の自分の声はないのです。
本来の自分の声は「いま」なんです。


仕組みのオハナシ : INDEX
※文中の「3.」等の数字は「仕組みのオハナシ」過去記事の番号です

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