変革者は外からくる、外部のものでしかなり得ない 理想主義者の敗北。

はじめに

自分はわりと反体制的というか、心に軸があるのか…、何でこんなことを、効率的ではないなぁ等と、改善案や改革案を考える方だ。悪く言えば批判的とも言える。そうして考えるなかには、これまでの記事でもあげてきたような政治や経済や社会の変化変革案もある。

しかし、タイトルでのべたように、大きな変化、理想主義者や空想主義者がよくするような大がかりな抜本的変化は、まず社会にはおこらない。ちまちま細々微調整で変わっていくばかりだ。

今回の記事では、なぜ大きな変化変革が外からの力でしか起こせないのかの説明から始まり、物事は本質的に腐敗するので、外部からの修正訂正システムを内に取り込まないといけないという話をしようとおもう。




変革者は外にしかいない理由

遺伝気質的なもの、興味関心や選好によるもの。実利(既得権益)によるもの。の三種類がある。1と2はかなり似ている。


1、遺伝気質的なもの

保守、革新の違い。村の飲み水用の川がここ数年で細くなった。ならば、新天地を目指そう。いや、たまたま減っただけかもだし、なくならないなら俺は残ろう。というように、そもそも変化しない選択を取りやすい、変化を嫌うものが人々の中には一定数いる。なんとなく今のままで良いよというスタイル、続けることが生き残りに繋がった人々のその遺伝的な潜在的態度。


2、興味関心や選好によるもの

今のままで十分満足しているから、もっと丸々しろとか、新しい丸々とか別に要らなくね?今のままで十分。といったミニマリスト、現状維持、ルーティーンにストレスを感じない等の現状満足派の人。老人が新しい機械なんてなくてもいいから、使う気もないし、使い方を覚えられないとも一緒。

また、リスク選好がかなり低い人。安定安全重視の人。リターンよりも危険の評価が強大すぎて、新しい何かに腰が引ける人。1の潜在的にではなく、もう少し理性性格的な部分で、変化を嫌う人も一定数いる。


3、既得権益や実利によるもの

これまであげたように、そもそも変化という行動事態に大きな抵抗力(したくない人たちの重し)がある。それでも変化という動きがもし起きたとしたら、それだけ大きく急な力が働かないとである。つまるところ、余程致命的な問題が起きた、あるいは、資本家や管理する側等の人を動かせる金や権力をもった側の勝手な都合(効率化、利益)のためでしか起きない。

権力者のための変化。これが末端や下っ端、1村人の得になることは到底ないだろう。また、権力者のための変化なのだから、当然彼の属する組織や集団の自己保身(既得権益を守る)にはしる。社会全体最適的にみて、本当に良い変化になるわけもない。

言い換えるなら、組織や集団や業界の存続に関係ない輩で、外の立場ながら権力を持っていて、上の立場や下の立場も理解して、施策を実行できる。いやそんなのはただの独裁者か、市民の総意や革命でしかないだろう、

大きな変化、皆の視点から見たより良い変化は、基本的に内側には期待できない。





内からの変革者

一部限定的な条件下や、理論上だけならば、内からの変革者も存在しうる。上述の要素のとおりで……

上の立場の権力者(意思決定者)が、公平無私の観点を持っていて、上や下の立場に囚われずに善を追求し、自己犠牲的に変化コストを自ら背負いながらも、自己保身的な振る舞いは避けて、自らが弱ったり滅びるのものも厭わない場合だ。

そんなできた人間いるわけないし、仮に居たとしても、公平無私、死ぬことも厭わないやつと共倒れしたい人はいないし。上も下もないとするのだから、人の上に立たない立てない。権力者にならない。現実的に存在しない。


一部限定的な条件下

個人(意思決定者と行動や利益をえる人が同一の場合)

家族(構成員と意思決定者が全く同じ価値観や方向を見ている場合)

チームやリーダー(権力者と一般の権力差か 少ない場合。目的が合致し皆の意見を取り入れようが成立している場合)

高度経済成長、新技術開発、全体上昇(権力者の狙った変化利益が、社会全体の利益と一致している場合)

市民革命(クーデター) 内の不満の爆発。


というわけで、現実的には我々の日々の変化は、家の増改築みたいなもので、延々とその時の権力者や意思決定者の意欲によるつけたしで成り立ち、たまの地震で壊れたときに、ようやく古い部分を1から見直したりするようなものだ。そんな家にすまざるを得ないのは、誰のための社会、何のための生活かと思ってしまう。





本質的な腐敗と外の視点権力

まだ記事をあげられてないが、全ての物事は本質的に腐敗する。という話をしたい。

本記事ではその一部しかあげてないが、内からの視点だけでいると、内外の本当の視点ではなくて内向きな視点だけになる。それは、設計設立建設当初の外から作った目的とは異なっていき、気づけば全然別物になる。だから、腐敗しないように、我々は常に外からの力にさらされる必要があり、必要なら訂正変更もされるべきなのだ。

しかし、上で述べたように、訂正変更、監視という権力を強くしすぎるとそれは独裁者か、総市民革命という名の国民感情衆愚政治的になる。弱くしすぎると、今の日本のような選挙に行こう!政治を監視しよう!みたいうすらさむい中身や力の抜けたパフォーマンスにおちいる。

本質的には、いずれは国を超えた国々の外、地球全体生物の外と、ひとつ上の視点が常に必要になる。まぁ今は各国の外レベルすら成立していない人間社会文化や社会通念の未成熟段階だろう。





具体的な外とはなにか

現実世界にもすでに外は存在している。具体的に外をイメージしてみると、モノや制度、個人、集団における本質的な目的とそれに向けた行動や結果のチェック機能を有していて、改善案や指摘を行うこと。と言える。

固有名詞に落とすと、経営コンサルタント、コーチ、銀行、外部監査役、会計検査院とそんな単語が思い付く。

外の要点は、どこまでをどんな方法でチェックするかと、チェックを踏まえた改善案の実現やらの精度や強度をどこまで設定するか。そしてチェック機能のチェックや、監査の権力が強すぎて、監査というところに権力がうつるだけでは、それもまた腐敗の温床になる。本質的な内と外について理解して、その制度設計が必要である。




外とは何者か

具体的な外の機能や権力を考えるには、そもそも外とは何者か。外と内とはどういう関係性であるべきか、から考えなければならない。

内と外の、目的や目指しているところが共通である

内と外の、損得のバランスが取れている必要がある

内と外の、力関係のバランスが取れている必要がある


散々述べてきたように、本来なら自らを殺したり損したりするようなものを取り入れたくはない。生物の本能に反している。しかし、人間のような複雑な欲求や社会性を持ってしまった場合には、取り入れなければいずれ腐敗するので、長期的には必要だと思う。

しかし、内と外。対立図式にしてしまうと、そのバランスは簡単に崩れて崩壊する。あるいは、企業と労働組合のようにいがみ合いの構図になりがちである。違うことをしたり言ったりすれば簡単に敵!と見なしてしまうのが人間だ。

というわけで三権分立よろしく、ゼルダの伝説のトライフォース的な構図にすれば良いと思う。例えば学校であるならば、生徒と教師、生徒と学校という対立構図だし、外の力が教育委員会やPTAといったチェックしかない。腐敗しやすくもろい。学校が人を育て教えるところならば、生徒、教える教師や道具、その場の提供管理の三分割すれば良い。そして、それぞれの外、生徒の素行や振るまいを内からも申告できる装置組織、教師の教え方や質についての管理チェックする装置組織、提供する場の管理チェックする装置組織があれば良いのだ。内の三つもバランスがとれ、内と各外もつながりがあり、外同士で繋がっても良い。企業活動も、社員、もの作り、それらの管理部門の三分割にしたらどうだろう。管理部門の利益をあげろと偉ぶることがなくなるはすだ。まぁ最終的に管理部門は、人が必ずやらなきゃではないので、システムで統一され、各社とも税務財務やらはアウトソーシングできる時代がくるんじゃなかろうか。細かいところは見通しが甘いが、この内と外図式はなかなか面白い発見に思う。



終わりに

理想主義者は、そういうわけで死んでもその理想が叶うことはない。というわけで、理想主義者は必ず敗北する運命にあるといってもいい。でも、後悔はない。人間とは本当に不思議なものだ。

さて、今回は書けなかったが、国も腐敗するのだから、国の外とはなにか、もう少し現実的に外を構築するにはどんな構図になるのか、それについて考えがまとまったら書いてみたい。

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