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センスという言葉の整理。本質的理解。

センス関連の記事に流れ着いて、乱雑で散漫とした記事が多くてなんか違うと思ったので、整理しておこうと思う。



センスとは

例えば料理のセンスがいいという場合から考えて一般化すると・・・、次の3種類になる。

1、料理(それ)自体の出来がいい + なんか感覚的感性的に凄い!

2、未経験や初心者クラスの習熟時間や経験なのに、著しい成果や表現をしている場合、センスがいい、才能があると用いる。(同じ努力や同じ時間の使い方をしても、その人だからできた場合)

3、一見奇抜な組み合わせ、理解できない組み合わせ、しかしながら斬新、独創性、創造性に溢れていること。


1と3は似ているが、すべてが感覚評価である場合が3であり、事物の科学的?あるいは理論的裏打ち?も内包反映しているのが1である。部屋がオシャレでセンスがいいという場合、○○をすると、部屋がすっきりみえる(視覚効果)から、同じ色で統一とか、腰以上の高さにモノを置かないとかそういう理論的にオシャレさが構成できる部分に+アルファして、言語化不可能、理論化不可能のレベルで、この辺もなんか格好良くて凄い!!という場合だ。





センスという言葉の扱いの難しさ

センスという言葉に理論と感性が混じっていることに尽きる。相反する言葉を内包しているのだから、自己矛盾をはらんでいて色々使い方に文句が出て当然である。

全て理屈で構成されている、あるいは言語化できると思っている、できている作品を、なんとなくいいねと感性でばっさり評価されれば、いやいやおまえ全然この作品や俺の事わかってないだろ!!となるし。センスがいいとかばっさり切るな!私の努力の結果だ!みたいな話もこのベクトルだし。

逆も然りで、言語化できていないレベルの高度な何かの組み合わせ、閃きを落とし込んだものを、理論理屈で延々と解説されたら、いやまぁそういう部分もあるけれど、それだけじゃない、がーん!とかずどーん!とくるものがあるだろと言いたくもなるだろうし。理論化して一般化できない私だけのオリジナリティを評価しろ!みたいな話はこのベクトルだし。





なんでセンスを使ってしまうのか

こんな面倒くさい言葉使わなければいいのにね。もっと的確な素直な言葉を使えばいいと思う。でも、やはり感覚的感性的に何かを表現したいときにでてきてしまう言葉なのだと思う。確かに理屈や言語化できない、自分の理解が足りていないものに対して、ただの格好つけでセンスがいい!!的に使っちゃうような場合もある。そんな場合は、上の指摘をくらう。笑

でも本当に、言語化できない素晴らしさを言葉にならない美しさを誰かと共感したり、共有したいから使うこともあるだろう。まぁこっちの使い方の方が、建設的で生産的で、本来的なセンスの使い方に思う。


音楽。フレーズ、進行、転調

言葉。映画のセリフ回しとか

服飾。モノの配置や置き方、凹凸、フォルム

文字。ロゴデザイン  等々





センスとアイデンティティ

センスという言葉を使用する背景にはアイデンティティがあると思う。差異的消費の記事で書いたような話と関連する。わかるんだけど、簡単にはわかってほしくないのだ。あなただけにはわかってほしいというか。私だけの視点を理解してほしいみたいな。

もっとわかりやすく言えば、詩の世界だろうか。ポエムな世界。

そこには理屈も理屈を超えた何かも含んでいて、一切合切で自己が形成表現されていて、それをそのままに受け入れ評価されたいそんな人間の心の隙間から生まれたのがセンスで、曖昧なくせに、人間の根幹の1つだから時に使われている言葉のように思う。まぁ格好つけのときもあるけれども。





終わりに センスの私見

センスとはつまるところ、個性、個人の視点と言い替えられる。女の子が涙を流す、お花に水をあげているの。携帯電話はタイムマシンになった。とか。そういうとある小説の1フレーズが私には忘れられなくセンスが良く思えるように、その人独自の感じる何かでしかない。

その人によっては、それは言葉ではなく音楽や味や映像やもっと違う何かでもある。その人にとっての何かのセンス(感性)がある。そしてそれらのジャンルや媒体やらを超えてまた混ぜて、1つに組み合わせて何かが生まれる。それを誰かがまた、わかる!なんかすごい!と表現する。

ただそれだけのこと。センスという言葉を使う際は、上で書いた背景やら仕様を理解しつつ、つまるところ自分は何が好きなのか、何にビビット来たのかを自分に問い詰めて、自分の内面を照らしたり、そこに新しい何かを、自分の感性で取り入れていく作業のことだ。


追記 センスの身に付け方論について

記事を書き終わり、こちらもおすすめされたのを見たら、センスをてにいれたい!!的な記事が多かった。本記事ではあまり触れてなかったので、センスの獲得について追記する。

結論から書けば、センスなぞ手に入るものではない。誰かのセンス獲得論に感銘を受けてそのままなぞっても、それは模倣だ。自分と向き合い続けた結果生まれた個性や創意工夫が感性込みの評価をされるとき、センスがいいと言われることがあるだけだ。

料理みたいなもので、食べた味だけではわからない、完成品に至るまでに積み上げられている全ての技術や、個人の叡知や感覚、そういう高度で複雑な結び付きの結晶がその人のセンス(視点、感性)なわけだ。

なので、センスはてにいれるものではない。正しくは、独創性とか個性を身に付けたいと表現されるべきものである。独創性や個性は人により評価がことなるので、センスがいい悪い等という言葉に一喜一憂しても仕方ない。その人や場所と自分があわないだけだ。

独創性や個性を獲得するには、模倣や学びという理論的な技術体系を積み上げることに加えて、自分だけが感じる結びつけてしまうものの個人の感性的な体系を積み上げることだ。情報が溢れている世の中なので、前者頼みの場合には、独創性なぞはもう難しい。なので、後者の自分の心の中、自分の言葉イメージで一つ一つ感じたものや事を整理していく作業にほかならない。


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