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本質的(論理的も可)であるべき、は囚われている、正しくない。

はじめに

常日頃、本質的ではないと苛立ち、自分の言葉で整理したり、指摘コメントを色々書いたりもしていました。しかし、34にもなってようやく本質的であるべき、も完全には正しいものではないと悟れたので、その辺について書きたいと思います。



本質的とは 具体例

定義してもピンと来ないと思うので、例え話を一つ。船が壊れて遭難して着のみ着のまま数名と島でサバイバルになったという状況


ある人は、水が大事だ!何かの番組で水を手にいれる方法はたしかこんなだった。ものを集めてその装置を作ろうとか言い出す。

またある人は火が大事だ!火を起こすには丸々で、こんな風にすればできると思う。手分けして材料を集めようと言ったり。


どちらも全く本質的ではないと思う。まず、救助が来るのを待つあるいは、救助されやすい場所まで行くべき、それとも、滞在やしばらくの定住を考えなければいけないのか。が話の始まりだ。

次に、生き残りには、水と火と食料と雨風や外敵から身を守るシェルターの四要素が重要だ。与えられた環境やらでその優先度は異なり、それらの要素を体温の保持に最大限気を使って進めなければならない。

さらに火や水やらは様々な手法で入手できるが、これも環境や地形の要因が強いので、3つある方法のなかで、一番目の方法が適切だと思うが、どうだろう?とかになって、その作業なら、別の作業が進められる余裕があるから、手分けしようみたいになるのが本質的だと思う。




本質的とは 定義

当該事象の物事、出来事、仕組み、法則等々を十分に理解していて。構成、時系列、グループ化等を用いて、重要要因を関連付け整理して、構造化できていること。比較、比重、優劣の判断が可能で、見通しまでもてていること。

スマホの原理等、私は知らない。でも、私が興味を持っていること、知りたいことは本質的に理解して、その上でまた新しいなにかを積み上げたり、脆弱な構造部分には、指摘をしてみたりしたいと常々思っている。基礎と応用といわれるような話ともそうで、私は本質的に理解することこそが、皆の誤解をへらしたり、より良い方向にすすむ唯一で確かな道だと思う。仮に失敗しても、本質さえおさえておけば大失敗にならないし、プランの軌道修正も容易だ。




本質的は正しくない 場合がある

基礎や土台から理解しないと、その物事について話し合うことを本質的にはできない。何故なら、話すということは共通見解認識を見出だすことなのだから、話の筋や論理構造やらを互いに理解する。つまり、構造化の作業が不可欠だからである。だから、みんな多少の遅れやらがあっても、最終的には、自分が関わることには、本質的になるべきでなれないやつはおかしいとさえ思っていたが、それは正しくはなかった。次の2ケースがある。


1、近道でコスパがいいほうを選びたい

前回、セックスレスとセックスフルの記事を書いた。(お互いを思いあってこれこれの要因を1から見直してはどうかという内容だった。)しかし、そんな細かい構造を理解せずに、普段よりエッチな下着でお誘いしてみる♪という安直なネットの1解決例を参考にして、それで成功すれば別に細かい理解等不要なのだ。

サバイバルの例でいえば、細かいことを話し合わなくても、北の方に向かおう!水源を見つけた!で結果オーライでそれでいいのだ。本質的でなくても表面的な理解やアドバイスで、まぁよくなる道を選びたい層もいる。少ないコストですぐに結果が出るような話を聞きたい層がいる。本質的であることが必ずしも正しくないのだ。



2、大事だと思っていないから。感度や興味好奇心熱量の違い。

1の内容とも類似している。2はそもそも興味や熱量がなくてその分野ではその人は本質的にならない、なれないということである。

例えば、料理において、本当なら味付けの構造とか、熱源熱量と食材の変化の関係性とか、様々な本質的理解があるが、別に食べれればいい。最後にソースで味を調えればそれでいい。という安直な理解でも別に事足りて不自由していないケースもある。スマホを使えればそれでいいのであって、別にスマホの構造やら細かいことの理解は不要だと思っているのと同様だ。




終わりに

自分に関係ないことなら、本質的でなくても十分事足りるし、それでいいのだから、全員が本質的であるべきと固執するのは間違いだった。とはいえ、スマホを作る側でないから、スマホを本質的に理解していないでいいというのと、家族の料理を作るけれど、まぁそこそこの料理でいいから理解していないというのとでは、やはり差がある。自分や周囲の人達と関連する事柄ならば、そこは話し合い、すり合わせ、利害関係が生じるのだから、本質的に理解していないと、共に歩めないし、先に進んでいけない(理や利を追求できない)と思うのだ。

尚、論理的であるべきもほぼ同様の帰結になる。加えて、論理的であるべきは、さらに多くの脆弱性を抱えている。前提推論結論の流れに誤りが生じやすい。発生確率の軽視(詭弁)や推論を用いすぎる場合に起こりやすい。また三段論法の誤用のように、論理構造の理解不足でも生じやすい。

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