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【3部作】智とnote  その1 智について

智とnoteについて思ったことを書こうと思う。人により方向は様々だが、学ぶというベクトルを人間は持つ。そして仲間と一緒の方が遠くへいける、互いに切磋琢磨しながら。noteは文章型snsなので、他のsnsよりも学ぶに向いていて、凄いことになる!!と思う反面、まだ足らない点、いや、その割に現実は全然一緒になって遠くへ向かっていない点を感じたので、書こうと思う。



その1 智とは何か 智について (本記事)

その2 視点視座の共有と、共感型社会の弊害

その3 文章型snsとは 他snsの比較と、智へのシステム改善





智の定義

書きつくされているので、今更だが、自分の言葉で整理することに意義があるので書く。

ある視点に立ち、

当該事象の物事、出来事、仕組み、法則等々を十分に理解していて。構成、時系列、グループ化、条件、場合分け等を用いて、重要要因を関連付け整理して、構造化できていること。比較、比重、優劣の判断が可能なこと。

本質的とはの記事での、本質的の定義と同様だ。本質も智も、まぁ似たような言葉だ。






智の説明

定義の通り、視点と構造化体系化というキーワードが重要になってくる。智は知識や情報とは異なる。些細な知識や情報とは、一問一答に近い。


○○年に鎌倉幕府ができた。

たてたのは、○○である。

彼は他にも、○○をした。 等


知識をただ得ても、それは広大な平面上に学んだ点を置いていく行為に等しい。なんら構造化されていない。役に立たない。但し、あらかじめ構造化された状態で学ぶ知識もある。理由や経緯や推移、比較、抽象化等を通じて、すでに形を成している場合だ。それは点ではなく、三角コーンを置くような行為に等しい。

例えば、鎌倉幕府が出来上がった経緯を答えなさい。その問題の答えを丸暗記しているようなものが、三角コーンだ。点の知識では到底答えられず、借り物の三角コーンならば答えられるが、それは些細な知識でしかない。

冒頭に述べた通り、視点と構造化が智には必要である。知識を智にするためには、そもそもどういう時に幕府って変わっていくのだろう。政府とかの衰退と誕生ってなんだろう。権力争いってなんだろう。権力の背景、権力の源泉とは、分散と集中、時代や場所により異なるけれど・・・、

とまぁ、そんな具合にどういう視点でもよいので、自分の視点で情報を得ようとすること、その過程で体系化と構造化が自然と進む。そうして得た情報は、○○が潰れるとは?という類の質問すべてに答えられる1つの智を得たと言っていい。当然、それだけでは正解真実にならないので、またその智に新しい情報や条件や場合分けやら、新しい構造体へと更新していく作業を生きている限り続けていく。





智の身に付け方

そうした智を身に付けるには、どうすればよいのかというと、1、視点を持つこと。2、論理力を持つこと。3、思考法を持つことである。細かい味付けは各自にあったものがあるので、細部はアレンジしてほしい。


1、視点(自分なりの興味関心、自分の着眼点の再認識)

気になったことに、何故を五回繰り返す 自分の興味を深堀りする。

気になる本をいろいろ読み、点が線に繋がり、自己理解する瞬間を待つ。

上位の智保有者と話して、あなたの視点はこういうことだ(こういうことを学んでみなさい)と教えられる。師匠、先生。

上位の智保有者が書いた、様々の視点を列挙紹介している本を読む。考え方の道筋をトレースできるまて丁寧に書いてある本を読む。

今の自分のレベルや興味に完全に合致した本を読む。


自分で気づくのか。自分で内面を深堀りして見つけるのか。それとも他人や本に教わるのか。その差はあるが、自分が知りたい学びたい、人生を通して答えを出したいと思っていたテーマや関心ある奥底のテーマに気づくことだ。




2、論理力

前提、推論、結論の基本三段構造の理解

真、逆、裏、対偶に始まり、三段論法の誤用など、論理構造の脆弱さ、陥りやすい誤用について学ぶ。

詭弁の理解(極論などの思考停止、強制停止ワードへの対応反論含め)

クリティカルシンキング(論理の可能性判断や前提条件を疑う姿勢の獲得)


人から学んだことや知ったことをただ置くことは、丸暗記である。そうではなくて、自分で必要だと思った情報や知識を集めたり、組み上げて、自分なりの積み木を盛り立てていく必要がある。しかし、それはレゴのようで、必要なパーツはどれか。このパーツは本当にこれとくっつくのかと、常に疑いと確認の目を要する。でないと、いつかの時におもいもよらず崩れ落ちてしまう。その組み合わせ力が論理力である。(本質的の記事で述べたが、論理力至上という考えも誤りである。)





3、思考法

評価指標の理解と、その評価指標の在り方の理解である。これは本当に多種多様だ。

コスパ

効率性・効果性

絶対量

株価評価額に関わるような、様々な指標とか

野球評価に関わるような、セイバー指標とか

環境、

正義・美徳

MECE

思考実験

相手の立場に立つ




視点を持ち、論理力で様々な点を結び、構造化して組み立てることを学んだとしても、最後の作業として体系化が残っている。あらゆる場合に備えて、強固にしたり、他の角度から見ても整っていることだ。それは、自分の力で組み上げ作り上げた積み木が、他人の目(違う角度)からはどう見えるかであったり、他の視点で見ても整っているのかといった、比較、条件分け、場合分け、主義主張の違いの理解等。別の評価基準や指標から見た場合の在り方、それへの反論等も含めて、更に包括的に考察する水準への昇華を指す








智の前進、求道

そうした3つを意識しながら智を皆が進んでいく。より前に、より遠くに進むには、視点の項目でも書いたが…、なんとくこれじゃない・・・もっとこう…という気持ちを持ちつつ、黙々と本を読んでもいい(いつかひらめく時がある)。偶然で完璧な本との出会いを期待してもいいし。知ってそうな人に出会って教えを乞うてもいい。

つまるところ、智の探究や前進、求道には

・自分と似たような道、自分の先を歩く人、からの、”上”からの指導鞭撻

・自分と同じ方向を向く人に向けての発表でわかる自己理解。(誰かに教えようとするとより理解が深まる的な話。要は書く。)、同じ方向を向いているけどちょっと違う人とのやり取りを経て見つける、”同じ横”からの対話反論による自分自身の再発見、





終わりに

同じ興味を持った人同士が自然に集まり、討論や意見交換して新しい発見をえる。そして前に進む。これは人間の自然な学びで、古来より繰り返されてきたことだ。別にそれは趣味の分野でもいい。ジャンルもレベルも問わない。

冒頭のべた通り、note凄いなという話に戻っていく。アナログから、デジタル化(ネット上)であることより、時間と空間、年代等を乗り越えた。そして、文章型SNSであるnoteより、発表や学びのしやすさ。結びつきやすさが向上した。智の向上環境が大幅に整えられたと思う。

こういうと大袈裟かもしれないが、note大学的なサイトにまで進化する可能性すら秘めているとさえおもったりする。なにかを学びたいならnoteを開く時代が来るかもしれない。しかし、とはいえ、noteができて数年になるのだろうが、そんなに凄い智への変化がおきたかといわれると、そんなことはない。

その2の話は、この点について触れようと思う。共感型社会の弊害について。ポピュリズムについて的な話。

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