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差し手思考と退職

世の中には自分をチェスのゲームにおいてどう位置付けるのかを考えた時に、2種類の考え方をする人間がいるらしい。
それは、「自らをチェスの差し手」とする考えと、「自らをチェスの駒」とする考え方だ。

私がこの考えを知ったのは、ほんまでっかTVで植木先生が解説している様子を見たからで、植木先生いわく、自らをチェスの差し手として考えられる人の方が大成するという。

そのような意見を聞いたならば、私もチェスの差し手として振る舞いたい、チェスの差し手的な視点で物事を考えられるようになりたいと考えるのが当然だろう。
しかし、そう思えばそう思うほど、自分がいかに”駒”としての考え方に染まっているかを痛感する。

それが特に感じられた瞬間が退職だ。

退職において、積極的にやめたり、やめることに躊躇のない人間であるかどうかが、自らを差し手として考えられているかの一つの判断基準になるのではないかと考えている。

というのも、退職において、積極的にやめることを選択できる人というのは、自分のやりたいこと、成したいことが明確で、それを成すために退職という選択を取ることができる。これは、大業を成すためでなくても、単に楽をしたいとかでもいいだろう。

この選択ができるというのは、常に自分の人生をコントロールしようという、強い欲求や信念があるからではないかと私は思う。

だからこそ、退職をする際に、誰かに迷惑をかけてしまうのではないか、自分が抜けてしまうと会社に不都合が生じてしまうのではないか(存在価値は不都合が生じることによって示されるから、生じる方が良いのだが‥)と考えあぐねて、結局思い止まってしまうのは、自分の人生のコントロール権を放棄した、典型的な”駒”的思考ではないかと思うのだ。

もちろん、大人として人に迷惑をかけないことなどは最低限考慮すべきではあるが、自らの人生をコントロールするという強い覚悟を持つことが、差し手思考になるための第一段階ではないかと思う。

私はまだまだ躊躇してしまうタチだが、そこに覚悟を持って、したくない選択をあえてすることによって、少しずつ自分自身をモデルチェンジできていったらと思う。