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まざまざと

私は今「全裸監督」をみています。

だいぶ遅れて、見始めた作品ですが、期待を超えて大変面白い。

アブノーマルなものを本気で追求する、ある種の狂気が感じられる作品ですが、一般人が感情移入できるようキャラクターのフォーメーションを整えるなど、違和感なく楽しめる設計になっているなと感心しています。

そんな「全裸監督」ですが、私が途中までみていて気になったことは、「なぜ主人公西村氏は、自らを裏切った”性”を生業にすることを選んだのか」ということです。

※ネタバレになりますので、まだみていないという方はこの先は読まない方が良いかもしれません。

第一話で西村氏の性に関係する特徴的なエピソードが二つ登場します。それは、
・幼少時代の両親の性交
・妻の浮気
です。

前者については、貧しかった少年時代に西村氏が両親の性交を目撃するというものです。ひもじい生活で、両親の関係性も良好では無い。しかし両親は性交をし、その後に目も当てられないような喧嘩をするというシーンです。
想像するに、幼心では性交を知らなくても、無感情な二人が本能のままに求め合っている姿は、虚無に映ったのでは無いかと思います。

そして二つ目。これは西村氏が仕事が好転してきてこれからだ、という時に妻と見知らぬ男が家で情事をしている場面に遭遇してしまうというものです。そして、最終的には目撃しているのがバレて、西村氏では満足したことがなかったという内容の捨て台詞を吐かれてしまいます。

両者のエピソードにおいて、西村氏は性というものに裏切られているのです。

しかし、西村氏は性=エロを人生をかけて追求することになる。
それはどうしてか。
私は次のセリフにその意味が込められているのではないかと思いました。

「私は人の性を売りたい」

多少違ったらすみません。
ただ西村氏はこのようなニュアンスのセリフを第二話で言っています。

これはどういうことか、私なりに解釈をしてみました。
西村氏は”性”に裏切られている。それも圧倒的に。
しかし裏返せば、人を裏切っても、人情や心とは相反しても、本能である”性”を優先している姿をまざまざとみているのです。
つまり、彼は「最も性の欲望の強さを体感した人間」でもあるわけです。
だからこそ、自分は好意的になれなかったとしても、”商売として”追求するにふさわしいものだと感じたのではないでしょうか。

この気づきから学びを得るとするならば、やはり自らの印象的なエピソードにはそれだけの理由があるということです。
深く心に刻まれているならば、自分なり、周りの人なりの、心の奥底の欲求や痛みが関わっているはずです。
これがビジネスになるかと言われれば、そうではないですが、生きるための指針の一つになる可能性は十分にあるのではないでしょうか。

私もこれまでの印象的な経験を、バイアスなく棚卸しして、新たな気づきや発見を得たいと思います。