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怒り

私の前の職場では、怒号が聞こえてくることは珍しくなかった。

今の時代、人を怒鳴るなんてパワハラだとか言うかもしれないけれど、人を本気で怒れるほど仕事に前のめりな人がどれだけいるだろうか。
少なくとも私は、仕事で怒鳴れるほどのめり込んではいない。
なので今日は、私の少し憧れを抱く怒りのあり方と、無粋な怒りの違い、そして前者はなぜ少し魅力的に感じるのかを自分なりに考えてみようと思う。

基本的に怒りとは、裏切りによって引き起こされるものだと私は考えている。
先ほど挙げた、上司が部下に対して怒るのは、自分が期待していた働きを部下がしてくれなかったことに対して怒っているわけであるし、レストランなどで店員に怒る人は、きっと自分が期待しているサービスを自分に施してくれなかったから怒るのであろう。つまり、他の人から何らかの形で”裏切られる”ことによって怒りが生まれるのだ。

では例にあげた二つの怒りの違いとは何か、それは怒っている相手に求めている目線の違いである。


部下に怒る上司の場合は、会社として、部として、達成したい目標があり、その目標達成のために任せた部下の責務が疎かになったことについて怒っている。つまり、怒っている本人の自分と、怒られている部下は、”目標”に向かって同じ目線を持っている。
しかしレストランで店員に怒る人が、店員に求めているのは自分への目線だ。店員が”自分に”施しをしてくれる期待が裏切られたから怒っている。そのため、店員と自分の目線の関係は丁度正対する形になる。
このように、私が少し憧れる怒りは、自分と同じ目標を見ること、つまり同じ目線を持つことを相手に求めているのに対して、無粋な怒りは自分と交錯する目線を持つことを相手に期待するという点で異なっている。

では両者の違いがわかったところで、私がなぜ前者の”怒れる人”に少し憧れを抱くのか。それはきっと、自分へのコミットメントが関係していると思う。

私ももちろん人間なので、社会的な生活を営んでいる。そのため、日常的に誰かに何かを頼む、期待することは普通に存在する。しかしながら、その期待を裏切られたからといってそこまで怒らない。私はこれまで、それを私が人にそこまで期待していないからだと思っていた。しかし改めて考えてみると、怒る自信がないからなのではないかと思うようになった。

これはどういうことか。それは、私が他人に怒れるほど目標達成に向けて本気になっているかどうか、振り返って自分は100%を発揮していたかどうかに自信が持てないからこそ怒りには達していなかったのではないだろうか。だからこそ、本気で人に怒れる人は、自分が精一杯やっていることを自認していればこそ怒れるのであって、そのコミットメントに憧れを抱いていたのである。

怒れる人物になりたいなんておかしい話ではあるけれども、日常に本気になって怒りが湧いてくるような人物になりたいと思う。