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新製品

今日はappleの新製品がでるかもしれないと、一日ドキドキして過ごしていた。

思い返してみると、私はappleの新製品、特にiphoneの新製品情報に昔から興味を持っていた。しかも、私がその製品を買うからではなくて、単にどんな新製品が出るかを楽しみにしていた。

考えてみれば不思議なものである。特段自分と関係があるわけではないものなのに、動向を気にしているのだから。きっと、何かしらフックになるものがあるはずなのだ。


そして考えてみて思ったのは、”日常が広がる感覚”である。

「私たちの生活はスマホなしには考えられない。」そう言っても全く過言ではないほどにスマホは普及してきた。そのため、私たちの日常に最も溶け込み、かつ価値を発揮しているデバイスだと言える。
そのため、その日常の核となるモノが進化するのであれば、自ずと日常自体もグレードアップするような気になってしまうのだ。

しかし、この考えにたどり着いて私は一方で寂しくなった。
というのは、日常の限界線を決めているのもまたスマホというデバイスなのだと気付かされたからだ。

スマホでできることはたくさんあるし、スマホが便利になることで新たに生まれる生き方が生まれることもある。
しかしその反面、自分たちの日常の進歩や、革新が、年に一度行われる誰かの考えた製品によってデザインされているの言えるのではないだろうか。
スマホという機器を中心に日常が回ることで、逆にこれまで多種多様なやり方で行われていたことが画一化され、予定外の価値との出会いやその人らしさがどこかで失われていっているのではないだろうか。

世界中の頭の良い人たちが知恵を振り絞り、”顧客体験”なるものとしてiPhoneをデザインしているのだから、さぞかし気持ちの良い日常や暮らしが享受できるようになるだろう。
しかし一方でまた、その体験は誰かによってデザインされたものであり、スマホが日常に欠かせないものになればなるほど、日常の限界線が誰かによって決められたものとしての色を強くしていることに気づかなければいけない。
できなかったものが誰にでもできるようになるということは、新しく見えてきたできないことの前に再び横一線に並べられ、1年間待つことを強いられているだけかもしれない。