眼玉が欲しい

 

 激しい頭痛で目が覚めた。

 棺桶の蓋を押し開けて、起き上がったものの、立ち眩みがして壁に手をついた。壁には翅に目玉の模様のある蛾が貼りついていて息をひそめていた。窓辺へ寄って、蜘蛛の巣に触れないよう頭を低くしながら窓を開け、外の空気を吸った。静かな郊外の美しい夜だ。夜は私の時間だ。

 蜘蛛の巣の主にそっとキスをして、おはようと言ったが、おくびょうな主は何も言わずに距離を取った。部屋の真ん中に戻り、瓶を傾けて水を飲んだ。それから靴をはいて部屋を出た。暗く狭い廊下をふらふらと歩き、青色に塗られた階段を一段ずつ明るい方へと下りた。

 アルバイトたちの姿はなかった。音楽ゲームの筐体の前に置かれた丸テーブルの上の交流ノートを手に取り、ぱらぱらめくって眺めた。頭の痛みのせいで特に読む気にはなれない。テトリスの筐体の低い椅子に座った。暗い画面を見つめていたら、ここで過ごした三年間の記憶が駆け巡った。気づけば眼帯の男が煙草を手に近づいてきて、低く優しい声を発した。

「体調はよくなったのかい」
「はい、少し。体が鈍っていますので、気晴らしに散歩に出てこようかと」
「一時間で裏口も閉めるから、それまでには戻ってくるんだ」
「わかりました」

 しばらく見つめ合っていた。私は小さく跳ねるように接近し、男の腰回りに抱きついてみた。そのままじっとしていてくれた。顔を見上げたが、厚い下唇は微動だにしない。男は指に煙草を挟んで、私の両肩に大きな手を置き、体を屈めて目線の高さを合わせてきた。黒い眼帯に閉ざされていない左目だけでこちらを見つめてきた。

「もう変な気を起こすんじゃないよ。真昼の太陽を直接見るとかね」

 私は微笑んで、闇の世界へと踏み出した。生ぬるい夜風がワンピースの裏へ入り込んで肌をくすぐってくる。小さくジャンプしようと試みたが、いつもより体は重かった。駅ビルの赤い灯りを遠目に、車のハイビームが行き交う国道沿いの道を折れて、物静かな住宅外へと入っていった。

 さらに住宅街を抜けて、見通しのよい遊歩道へ入っていく。道はまっすぐだった。このまま行けば私立大学の裏門に差しかかるだろう。月は雲に隠されていた。寂しい星空だった。星は地上のわずかな灯りに邪魔されて満足に見えず、晴れ間からひときわ明るい星座だけが見えるのみだった。

 行く先のはるか頭上では高速道路が交差していた。その明るさと対照的にこの道は暗くじめっとしていて、石の下の虫けらにでもなったような心地だ。それは悪い感情ではない。穏やかでさえある。

 ふいに道路や星座や、テトリスのことを思った。すべて直線というのは力強くもはかない。剛直なものには破滅の予感がある。だがそこが美しくもある。

 長いこと歩いた。神社の境内を横切るとき、茂みで何か物音がしたようだった。少しして私は振り返った。だが、何も見当たらなかった。足を速めた。背後から影がひたひた近づいて来るようだった。別に気にすることではない。そう言い聞かせた。だが、地面に吸い付くような足音が、だんだんと距離を縮めて迫ってくるようだった。

 私はその場で立ち止まった。振り返ろうとした。が、遅かった。金属質の何か尖った切っ先が背中に当たるのを感じ、しわがれた声を聞いた。
「動かないで。抵抗したらブッ刺す。ただ、お願いを聞いてほしいの」
 若い女の声であった。
「なんのつもり。そんな脅しには私は屈しない」
「脅しじゃないの。ただのお願い。聞いて、悪魔の眼玉が欲しいの」
 愛玩動物とじゃれているような可愛らしい声だった。だがその中に有無をいわさない真剣味が隠されていた。

「私は悪魔じゃない。そもそもこの街に悪魔はいない。じゃあね」
「さすが悪魔は嘘つきね」
 尖った切っ先でちくっとやられた。痛くはなかったが、全身が震えた。振り返らずに私は尋ねた。
「どうして悪魔の眼玉なんかが欲しいの」
「恋人がね、そろそろ子供を作ろうって言うの。人形の体内に薔薇とかいろんなものを詰め込んで、最後に悪魔の眼玉を嵌め込むとできあがり。そう、最後に眼玉を。しかも、あと一個だけでいいの」
 女の声は、かすれてはいるが、子守歌でも聞かせるように穏やかだった。

「何を言っているのかわからない。いずれにせよ私の眼玉なんか役に立たないでしょう。実は私は吸血鬼なの。決して悪魔じゃない」
「なあんだ、そうだったのね。でも同じことよ、悪魔も吸血鬼も」
「断じて違います」
「違うというならこっちを見て。ただし逃げようとしてはだめ」

 振り返った。その女は白いパーカーを着ていた。小柄できゃしゃだったが、黒い長髪は腰まで伸びていた。銀の十字架のネックレスを首にぶらさげていた。口元には「∞」と書かれたマスクをしている。両目だけが際限なく見開かれ、らんらんと輝いていた。そして右手にはアイスピックが握られていたが、刃渡りは思ったより長くその切っ先が月光に照り輝いていた。
「嘘つき。求めていた眼玉とちゃんと同じじゃない。まさにそれが欲しかったの」

 眼前にアイスピックの残像が斜めに出現した。私は倒れるように避けていた。逃げようとしたが、だめだった。足に女がしがみついてきた。転倒。女が上から覆いかぶさってきた。馬乗りの状態で刃が振り下ろされた。女の腕をつかみ、慎重に押し返した。こいつは錯乱している。

「なぜ抵抗するの。やっぱり悪魔なのでしょう」
「刺す前に、落ち着いて私を見て」
 女は小さな電子機器を取り出し、白く強烈な光を向けた。それはただの光に違いなかったが、体が燃える思いがした。このまま光を浴びていると灰にでもなりそうだった。
 女の指がまぶたに食い込んでくる。
「じゃあ、もっとしっかり見せなさい」
 反射的に私は目をかたく閉じる。指が再三触れ、まぶたがこじ開けられる。
「見つけたわ。これだ。これだ。これ。これ。これ。これ。この眼玉。この眼玉。眼玉。眼玉。眼玉。眼玉。眼玉。眼玉眼玉眼玉眼玉眼玉眼玉眼玉眼玉眼玉眼玉」

 いっそ大きく見開いて見せつけてやろうか。私は悪魔ではないのだから。眼の中に太陽のような光が注がれていく。いやだなあ、この光だけはいやなんだ。しかしなぜか精神は妙に落ち着いていた。すると突然、拘束は解かれていた。

「なんだ、ほんとうに悪魔じゃないんだ。ごめんね。興味なくなったわ」

 女は颯爽と消えた。やり返すどころか、悪態の一つさえ浴びせる間もなかった。私は起き上がると、頭痛が消えているのを感じながら、来た道を転びそうになるほど走って戻った。

 小さな部屋に男は待ってくれていた。男は何も言わずに紅茶のクッキーを差し出し、ティーポットから熱い紅茶を入れてくれた。私は深く礼を述べた。そして次の晩、この街に永遠の別れを告げた。棺桶を背負って、糠雨の降る中を。


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