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「まどマギ」「かがみの孤城」と「シンエヴァンゲリオン劇場版」を比較(考察・研究解説本紹介)

『夢の中の第3村-「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(北村正裕著、2022年1月、Kindle版電子書籍)は、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を含むアニメ『エヴァンゲリオン』シリーズ(庵野秀明総監督)と『エヴァンゲリオン』の強い影響を受けて生まれたアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之総監督)、そして、『まどかマギカ』によって定着したパラレルワールドの考え方を土台にし、『エヴァンゲリオン』と同様に、居場所を求める孤独な少年少女たちの物語でもある小説『かがみの孤城』(辻村深月作)の3作品をジャンル横断的に論じる作品論ですが、ここでは、その序章と第一章の一部の内容を中心に、『かがみの孤城』についてのネタバレを避けつつ、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の中の「第3村」の意味についての考察の部分を取り出して、その内容を、簡単に紹介してみたいと思います。

二〇二一年三月八日に公開された、アニメ『エヴァンゲリオン』シリーズ(庵野秀明総監督)の最後の作品となる『シン・エヴァンゲリオン劇場版』。一九九五年放送開始の テレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に始まり一九九七年の映画『THE END OF EVANGELION 』で『新世紀エヴァンゲリオン』が完結した後、二〇〇七年に『ヱヴァンゲ リヲン新劇場版:序』でスタートした新劇場版シリーズ四部作は、エヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジをはじめとする『新世紀エヴァンゲリオン』と同じキャラクターが登場し、『新世紀エヴァンゲリオン』と同じように「二〇一五年」の世界からスタートしながら、『新世紀エヴァンゲリオン』の世界とは違う別の世界(パラレルワールド)、別の可能性を描くものでしたが、二〇一二年に公開された四部作の第三作『ヱヴァンゲリヲン新劇場 版:Q』からは、舞台が前半の十四年後に飛び、しかも、シンジ等、エヴァンゲリオンパイロットたちだけは、十四年経っても十四歳のままの姿であるという異様な展開を見せ、それから完結編である『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開までに、さらに、八年以上かかるという展開も普通ではありませんでしたが、ついに公開された完結編は、これまでの『エヴァンゲリオン』シリーズが一貫して描いてきた孤独な少年少女たちの居場所を求める物語という軸を、最後まで曲げず、さらに、その本質を明確にするものでした。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の大詰めで、初号機パイロット、碇シンジは、2号機パイロットのアスカを13号機の中から救出して解放しますが、そのとき、アスカは、「人に嫌われても、悪口を言われても、エヴァに乗れれば関係ない」、「私に居場所を与えて」と振り返り、さらに、十四年間も初号機に閉じ込められていた零号機パイロットの綾波レイをシンジが救出しにやってきたとき、「私はここでいい」と言う綾波レイに、シンジは、「もうひとりの君は、ここじゃない居場所を見つけた」と話して、新しい世界への旅立ちを促し、その意味を理解したレイは「ありがとう」と答えてシンジと握手しました。二十五年間に及んだ『エヴァンゲリオン』のしめくくりの主人公たちの会話の中に登場した「居場所」という台詞。 二〇〇九年の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の中でも、アスカは、エヴァンゲリオン2号機を、「私の、世界で唯一の居場所」と表現していましたが、完結編の大詰めでの、主人公たちの会話の中での「居場所」という言葉は、改めて、この物語が孤独な少年少女の居場所を探す旅の物語であったことを明確に示すものだとも言えるでしょう。 この『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開の前日の三月七日、その二日前に文庫版が発売されたばかりの小説『かがみの孤城』(辻村深月作)の全面広告が朝日新聞に掲載され、そこには、「この本があなたの居場所になりますように」という作者、辻村深月さんのコメントが載っており、二日続けて、「居場所」という言葉に出会ったのも印象深いで出来事でした。
二〇一三~二〇一四年に「asta*」に連載され、その後、大改訂を経て、二〇一七年に単行本 として出版された小説『かがみの孤城』は、学校に居場所を失った中学生たちが鏡をくぐり ぬけた先の謎の鏡の城で出会う物語ですが、二〇一七年版のこの小説には、連載版にはなかった展開が用意され、鏡の城での主人公たちの行動が現実世界の運命を決めることになり 、そのいわば現実の相対化を描く様子は、二〇一一年にテレビアニメとして登場し、二〇一二~二〇一三年に劇場版三部作が公開された『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之総監督)に通じるものがあると思います、その『魔法少女まどか☆マギカ』は、アニメ『エヴァンゲリオン』シリーズの強い影響のもとで生まれた作品であることを考えると、『エヴァンゲリオン』から『魔法少女まどか☆マギカ』を経て『かがみの孤城』へ至る芸術の歴史は、アニメからスタートした革新的な芸術が小説の世界にまで影響を及ぼした事例としても興味深いものです。『かがみの孤城』の中では、登場人物の一人のマサムネが、城で出会っている自分たちの現実世界がパラレルワールドではないかと話す場面で、それを説明する中で、「パラレルワー ルド」について、「SFの世界だと、ドメジャー級の常識に近い考え方だぞ」とも発言していますが、この時点でのマサムネの現実世界は二〇一三年であり、『魔法少女まどか☆マギカ』によって、パラレルワールドを描くSFアニメが大きな潮流と見ることができるようになり 、『魔法少女まどか☆マギカ』がその潮流の代表格としての地位を確立していった時期です。その『魔法少女まどか☆マギカ』のテレビシリーズの放送が始まった二〇一一年は、すでに、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(二〇〇七年)、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(二〇 〇九年)が公開された後であり、『新世紀エヴァンゲリオン』の世界に対するパラレルワールドを描く『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は、その点でも、『魔法少女まどか☆マギカ』に影響を与えているだろうし、二〇一二年の『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』の「前編」、「後編」公開時の宣伝パンフレットには、『エヴァンゲリオン』シリーズの庵野秀明総監督 が、「アニメファン」という肩書でコメントを寄せてもいますが、『エヴァンゲリオン』の『魔法少女まどか☆マギカ』への影響は、単に、パラレルワールドのアイデアにとどまるものではなく、もっと重要な点、例えば、現実世界の虚構の世界に対する優位性に関する問いにあると思います。
『新世紀エヴァンゲリオン』の完結編である一九九七年の映画『THE END OF EVANGELION』の大詰めでは、主人公の碇シンジと零号機パイロットの綾波レイとの心の 対話シーンが繰り広げられ、「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」と問うレイに、 シンジは、「僕ひとりの夢を見ちゃいけないのか?」と、さらに問い、結論の出ない問答が 続いた末、シンジは、他人のいる世界を望み、他人のいない世界から他人のいる現実の世界 に戻りますが、再び苦痛が始まることを示唆するようなシーンで「終劇」となりました。そして、それから十年以上が経過した二〇一三年に公開された『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〔新編〕叛逆の物語』の中で、偽物の世界を作りだして、その中で、かつての世界での友だちであり、改変された世界には存在しなくなってしまった鹿目(かなめ)まどかとの再会を果たし、争いもない理想の世界の中にいた暁美(あけみ)ほむらは、偽物の街を作り出した罪を償うために自らを処罰しようとし、そのほむらに対して、まどかの親友だった美樹さやかは、「これってそんなに悪いことなの?」、「誰とも争わず、みんなで力を合わせて生きていく」、 「それを作った心は、裁かれなければならないほど罪深いものなの?」と問い、虚構の世界の価値に対する、かつての『新世紀エヴァンゲリオン』の中でのシンジの問いを、もう一度、 投げかけ、虚構の中の虚構の世界を作った暁美ほむらは、その虚構の世界で気づいた真実に忠実に、自らが悪魔になることで、かつてまどかによって書き換えられた世界をさらに改変してしまいます。二〇一七年版の『かがみの孤城』では、鏡の城での出来事が自分の妄想ではなかったのかと心配になった主人公の安西こころは、妄想であることに気づいてしまったことで、もう城に行けなくなってしまうことを恐れます。彼女は、「それが幻想だったとしても、あの願望の中にいる方がマシだった」、「だって、現実は、もっと本当にどうしようもない、こころの願望も考えも通用しない場所なんだから」と、考えます(十七年版三一九頁、二十一 年文庫版下巻三九頁)。そして、城に行くための鏡が、城へ行くために光ってくれるかどうか心配しながら鏡のある部屋を開ける場面では、「鏡が光っていた」(十七年版三二六頁、二十一年文庫版下巻四八頁)。そして、ついには、鏡の城という虚構の世界でのこころの行動が、現実の世界の運命を決めることになります。鏡の城でのできごとが現実の世界の運命を決めていたことが明かされる「衝撃のラスト」は、『新世紀エヴァンゲリオン』以来、現実世界で孤独だった少年少女たちの貴重な居場所であり続けたアニメや小説の世界を、現実の世界に対して軽く見るべきものではないということを堂々と宣言するものだったと思います。『新世紀エヴァンゲリオン』が現れたころには「現実逃避」のように見られ、「アニメオタク」という言葉が否定的なニュアンスを帯びて使われ、作品の中でさえ、登場人物たちによる悩ましい 問答が繰り返されていたその問いに、それは「現実逃避」などと呼ぶべき恥ずべきことではないということを、『かがみの孤城』の「衝撃のラスト」は宣言したのだと思います。そして、『新世紀エヴァンゲリオン』の後、『新劇場版』として再始動していた『エヴァンゲリオン』も、ついに、二〇二一年三月、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で完結しましたが、そこでは、第3村というはかなく美しい虚構の世界の中での出会いと別れが、主人公等、エヴァンゲリオンパイロットたちの新しい可能性を示唆するなど、虚構の中での体験が新しい世界の可能性を開く結末が示され、現実へのこだわりを見せつつも、『かがみの孤城』とは別の方法で、現実世界の相対化に挑戦したように思います。『エヴァンゲリオン』、『魔法少女まどか☆マギカ』、『かがみの孤城』の三作品は、孤独な少年少女たちの居場所を探す旅であると同時に、虚構と現実との関係、虚構の意味を問うという意味で、作品自体が芸術論になっているという点でも、親和性を持つものであり、さらに、 虚構の意味を考える手段として、パラレルワールドの考え方を積極的に取り入れているという点でも、比較に値する共通点を持っていると思います。『魔法少女まどか☆マギカ』の場合、孤独な少女という面が強調されているのが暁美ほむら一人なので、「孤独な少年少女たち」という複数形には必ずしも似合わないかもしれないが、『エヴァンゲリオン』、『かがみの孤城』との比較の対象にふさわしい作品であることは間違ないでしょう。『エヴァンゲリオン』から『魔法少女まどか☆マギカ』を経て『かがみの孤城』へ至る芸術の歴史は、このような観点で眺めると、それぞれの作品をより深く味わうことにつながることは間違いないでしょう。

ここでは、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の中の第3村について少し振り返ってみたいと思います。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(二〇〇七年)でスタートした『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズ四部作は、『新世紀エヴァンゲリオン』(一九九五年~一九九七年)の登場人物の別の世界(パラレルワールド)での別の可能性を描くものでした、『新世紀エヴァ ンゲリオン』と同様に「二〇一五年」から物語が始まり、シンジたちは、ネルフという組織の人造人間エヴァンゲリオンに乗って、人類の敵とされる使徒と呼ばれる謎の生命体と戦 っていましたが、第三作の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(二〇一二年)の冒頭から、突然、十四年後の世界に話が飛び、それにもかかわらず、主人公でエヴァンゲリオン初号機パイロットの碇シンジや2号機パイロットのアスカは「エヴァの呪縛」のために十四歳のままであるという異様な世界の中での物語になりました。シンジは、第二作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(二〇〇九年)のラストで、零号機パイロットの綾波レイを救出しようとして初号機で出撃したものの、その行動が、結果として「ニアサードインパクト」という地球規模の大災厄を引き起こしてして街を破壊してしまい、しかも、綾波レイも助けることが出来ず、彼女が初号機の中に取り残されたまま救出不可能な状態になっていることを知ったばかりか、さらに、その贖罪のためと思っての行動が、事態をさらに悪化させてしまうに至って、絶望し、第四作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の冒頭では、かつてエヴァンゲリオンに乗って人類の敵とされる使徒と戦っていたときの本拠地であるネルフ本部のあった第3新東京市(箱根がモデル)の跡地をさまよっていました。ネルフ時代からのシンジの上司である葛城ミサトらは、ネルフの作戦が人類の滅亡につながることに気づき、ヴィレという組織を立ち上げてネルフとの戦いを決意し、その空中要塞のような空飛ぶ戦艦、ヴンダーを基地に、ネルフと戦っていましたが、同時に、ニアサードインパクトでも辛うじて生き残った土地を封印柱という防護装置などを用いて護り、また、KREDIT(クレーディト)という支援組織を立ち上げて、生き残った人々が暮らす村への食糧や医療機器の提供などでの支援活動も支えていました。そして、そんな支援によって生き残っていた村のひとつで、かつての第3新東京市の跡地にある第3村に、新劇場版四部作の第四作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で、シンジはたどり着きます。初号機に取り残されている綾波レイにそっくりのネルフの新しいエヴァンゲリオンパイロット、仮称アヤナミレイも同行しており、さらに、今はヴィレに所属している2号機パイロットのアスカも、シンジの監視の任務を帯びてシンジたちに同行していました。そして、その第3村で出会ったのは、かつての第3新東京市の中学校の2年A組のクラスメート、鈴原トウジでした。彼は、やはり同級生だった旧姓洞木ヒカリと結婚し、ツバメという名の娘、あかちゃんを育て、トウジは、医者として村に貢献しており、さらに、やはり同級生だった相田ケンスケは、環境調査などの仕事で活躍していました。ケンスケはシンジに、彼らの今の素朴な幸福が、シンジの引き起こしたニアサードインパクトのおかげだと言います。ニアサードインパクト後の苦労がトウジとヒカリの縁結びであると言い、「ニアサーも悪いことばかりじゃない」と話し、これまで自分の過去のすべてを否定して気力を失くしていたシンジは新たな可能性を感じ始めます。『新世紀エヴァンゲリオン』では、「本来、魂のないエヴァには、人の魂が宿らせてある」(第弐拾参話、リツコの台詞)のであり、パイロットは、その魂と心を通わせることで、初めてエヴァを操縦できるのであって、その「シンクロ」は、エヴァに宿らせてある魂とパイロットの魂とが絆をむすぶことであり、それゆえ、それぞれのエヴァの専属パイロットは、他のエヴァには、簡単には乗ることができず、この制約が、『新世紀エヴァンゲリオン』では、物語を深めるための重要なポイントのひとつになっていました。そして、それゆえ、弐号機 (2号機)パイロットのアスカが3号機に乗ることはできず、3号機のテストのための新しいパイロットを選ぶ必要があり、その残酷な運命を与えられたのがトウジでした。その残酷な運命については、『エヴァンゲリオン解読 そして夢の続き』(二〇〇一年)とその文庫版『完本エヴァンゲリオン解読』(二〇一〇年)の第四章に書いたさい、「これを残酷と言わずして、何と言おうか」等と記しましたが、『新世紀エヴァンゲリオン』で重要だった「魂」をめぐる制約が取り払われた新劇場版の世界では、3号機に、2号機パイロットのアスカが乗ることが可能となり、トウジに残酷な運命が与えられることはなくなり、『新世紀エヴァ ンゲリオン』のときとは真逆の素朴な幸福が与えられているので、『新世紀エヴァンゲリオン』のファンとしては感無量ですが、それを知らない劇中のシンジにとっても、心配していたトウジが元気に暮らしていたことは、大きな救いになったはずです。
そして、新劇場版で3号機に乗ることになったアスカは、それによる試練とともに、やがて、新たな可能性を見出すきっかけを得ます。ここでひとつ注意しておきたいのですが、『エヴァンゲリオン』について、「エヴァはパイロットの母親の魂を持っている」というような表現は正しくありません。エヴァの魂とパイロットとの関係が親子の関係であることが明らかなのは、『新世紀エヴァンゲリオン』における初号機と弐号機だけであり、同じ『新世紀エヴァンゲリオン』でも、零号機の場合は全く違います。零号機の魂は、パイロットである綾波レイとはむしろ相性の悪そうな他人であり、レイが難しいシンクロを強いられていることや、その秘密を、エヴァ開発の責任者である赤木リツコでさえ知らされていないということの背後にあるゲンドウの画策の恐ろしさなどは、『新世紀エヴァンゲリオン』解釈に深みを与える重要なポイントです。これらは、『エヴァンゲリオン解読』とその文庫版『完本エヴァンゲリオン解読』では詳しく述べましたが、視聴者が作品を繰り返し見ることで把握すべきことでしょう。さらに、新劇場版の世界では、初号機の中のユイは、初号機の「制御システムになっている」(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の中の冬月の台詞)のですが、エヴァの魂になっているわけではないということにも注意しておきたいところです。『新世紀エヴァンゲリオン』の世界では、中学時代からヒカリはトウジに想いを寄せていて、トウジもそれに気づいていながら、二人の距離は縮まらず、トウジを悲劇が襲うのです、新劇場版では、そうした二人のやりとりが描かれておらず、二人とも、『新世紀エヴァンゲリオン』の世界の中での自分たちの運命を知らないだけに、そんな彼らが新劇場版の世界で素朴な幸福をつかんでいることに『新世紀エヴァンゲリオン』のファンとしては感無量なのですが、ケンスケは、シンジに、トウジとヒカリのことを、「中学のときは、ケンカばかりしていた」と話します。でも、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の終盤で、使徒が攻めてきたときの市民の避難所のシーンで、トウジがヒカリを抱きかかえるような姿勢でかばっているシーンが、一瞬、画面に映っています。そのときの使徒が、綾波レイを零号機ごと食ってしまい、シンジは、初号機でレイを助けようと使徒に挑んだものの、自らとレイを初号機の中に取り込まれてしまい、シンジは、その後、救出されたものの、綾波レイは、そのまま、救出不可能になってしまったのです。第3村での出会いは、新劇場版四部作の中の最も印象的な場面であり、新劇場版が、このシーンを描くために作られたものなのだと感じさせるほど美しい世界が描かれます。しかも、この素朴な幸せは、ヴィレの封印柱などで辛うじて護られている危うい世界であるため、そのはかなさが、いっそう心にしみます。第二作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』でシンジがひきおこしてしまったニアサードインパクトという災厄によって破壊された鉄塔や電車の車両の一部が赤く染まって空中を浮遊していたり、空中の様子も異様であり、村のすぐ外には、ネルフ本部の地下深くにあった人類補完計画のアイテムの一部だったと思われる不気味な物体が地上に姿を現したりしていて、滅亡と紙一重の世界が第3村なのです。ケンスケは、何故か、練馬ナンバーの車で村の中を移動していますが(『エヴァンゲリオン』の世界では、 旧東京は、西暦二〇〇〇年に起こった南極を爆心地とするセカンドインパクトと呼ばれる 地球規模の大災厄によってほとんど滅亡状態になっている模様で、旧箱根の第3新東京が重要な役割を果たしています)、『新劇場版』の世界では、二〇一五年に結果的にシンジが引き起こしてしまったニアサードインパクトによって第3新東京市が破壊された跡の第3村では、図書館も公衆浴場も、止まったままの電車の車両を利用して作られていて、公衆浴場の浴室には青いビニールシートも見えます。貨物列車の車両に青いビニールシートを張ったような浴槽ですが、第3村が旧箱根であることを考えると、お湯は温泉なのかもしれません。村の家には、昭和を思わせるダイヤル式の黒電話もあり、未来の先の滅亡と古い時代への郷愁も漂っています(第3村は旧箱根ですが、その風景の多くは、天竜浜名湖鉄道、天竜二俣駅付近がモデルになっているようで、映画のエンディングクレジットに「ロケーション協力」として「天竜浜名湖鉄道」の名があります)。また、未来の理想郷を思わせる温かい共同体でもあり 、制服や変な規則のある学校はないようですが、エヴァ搭乗用のプラグスーツ姿の名前もない仮称アヤナミレイでも自由に通えるような塾かフリースクールかボランティアによる学習支援会のような学びの場もあります。 理想郷と言っても、自然の中に突然現れた桃源郷ではなく、ネルフに反旗を翻したいわば反乱軍であるヴィレや、そのヴィレが立ち上げた支援組織であるKREDIT(クレーディト)によって保護され、食糧の配給を受けながら生活を維持している人々の共同体であり、シンジたちが訪れるまでには、数々の苦労があったことも示唆されます。農業を基盤とする食料生産を行っていますが、かつては、食料不足で苦しんだ時期や、それゆえの盗難などもあったかもしれません。トウジは、シンジに、「家族のためには、お天道様に顔向けできんようなこともした」と語り、「分配長、あんたが気に病むことないで」という寝言を言う場面も出てきます。第三作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』で、突然、十四年後の世界に飛んでしまったこと、にもかかわらず、シンジたちが十四歳のままでいたことも、この第3村を描くためだったのかと、初めて納得できるのが、この第3村の場面であり、シンジたちがヴィレの戦艦、ヴンダーに戻った後のシーンには、ヴンダーの艦長のミサトがKREDIT(クレーディト)の独立運営を承認して電子署名をする場面もあります。第3村の図書館(電車の車両を利用したもの)の壁には、『となりのトトロ』(一九九八年公開の宮崎駿監督によるアニメ映画)のポスターが貼ってあり、『となりのトトロ』へのオマージュと思われますが、第3村の美しさは、『となりのトトロ』に描かれる山里や森の自然の美しさとは、微妙に違っています。『となりのトトロ』で描かれる美しい風景は、過去の日本の風景としてとらえることができるものですが、第3村の風景は、未来の滅亡の危機の中に辛うじて残っているはかない世界であり、その美しさは、ある意味では、アニメ映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』(原恵一監督、二〇〇一年)で描かれる夕日町の美しさに近いかもしれません。すでに、その存在を認められることもない夕日町は、現代を認めない秘密結社「イエスタデイ・ワンスモア」によって作られたはかない虚構のような世界であり、実際、しんちゃんたち、未来ある健全な子どもたちによって、否定されてしまいます。そして、決して認められないそのはかなさ故に、それは、ひたすら美しいのです。もちろん、第3村には、未来への希望のメッセージが込められていて、『オトナ帝国』の中の夕日町と似ているなどという筆者の指摘に違和感を覚える読者の方も多いかもしれませんが、作品全体の中での位置づけとか、作者からのメッセージなどとは無関係に、はかなさゆえの美しさを感じるということは記しておきたいと思います。滅びと表裏一体でアンバランスな危うさを感じさせるほどの美しさという点で、第3村の風景は最も『エヴァ』的な風景であり、『エヴァンゲリオン』が二十年以上続いていたのはこの風景を描くためだったのだと思わせるほどです。この第3村のシーンに比べたら、シンジがヴィレのヴンダーに戻って目覚めてからのシーンは、もはや、『エヴァ』を終わらせるための儀式に過ぎないとさえ思えるくらいですが、そこまで言うのは言いすぎでしょうか?
エヴァンゲリオンに乗ること以外に自分の居場所が見つけられずに、孤独なまま、さらに重荷を背負って、十四歳のままでいた少年シンジと少女アスカは、この第3村で、十四年後のクラスメートたちに出会うことで、自分たちの新しい可能性を感じ始め、これは、別々の年代の七人が、それぞれの中学生時代の世界から中学生の姿で時空を超えた鏡の城で出会う『かがみの孤城』の世界と比べると、ある意味で逆の出会いです。『かがみの孤城』の安西こころは、鏡の城で、現実世界でも会うことになる重要な人物の十四年前の姿に出会いますが、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』のシンジは、第3村で、クラスメートだった鈴原トウジの十四年後の姿を見るのです(シンジが十四年後の世界にはいってしまう『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の公開は二〇一二年、『かがみの孤城』単行本でこころと重要な少女の世界の十四年のずれが示されたのは二〇一七年、シンジが第3村にたどり着く場面が描かれる『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の公開が二〇二一年)。
この第3村で、それまで、命令に従うことしか知らなかったような仮称アヤナミレイが、鈴原夫妻の娘である赤ちゃんのツバメちゃんの子守りをしたり、村人たちと交流して、自分の新しい居場所を見つけますが、今ではネルフと対立する組織、ヴィレに所属し、ヴィレの戦艦、ヴンダーから脱走したシンジの監視役としてシンジに同行していたアスカも、また、第3村での体験から、自分の新しい可能性に気付いていきます。
『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流アスカと違って、新劇場版シリーズの式波アスカは、レ イと同じように、人類補完計画のためにネルフによって生み出された孤独な少女、シキナミ タイプのひとりでした。しかも、彼女は、第二作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』でエヴァンゲリオン3号機に搭乗したときに、人類の敵とされる使徒に浸食され、それ以来、体内 に使徒の力を宿していて、その力を封印するために、眼帯で覆われた左目の中に封印柱がい れられています(このことは、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の終盤で明かされます)が、彼女を危険視し、暗殺しようとする者がいる可能性を感じているようです。彼女の首に装着されているDSSチョーカーは、覚醒リスクへの備えのようにも見えますが、アスカを危険視する者は、ヴィレの内部にもいるかもしれないし、また、アスカは、ヴィレの重要な戦闘員であるため、ネルフ側からも狙われていて当然でしょう。彼女は、かつての同級生であるケンスケの家にかくまってもらっていて、あまり外に出ず、仮称アヤナミレイが訪ねてきたときには、それが仮称アヤナミレイだとわかるまで、その物音に怯えて、銃を構えて警戒するほどでした。そんな彼女にとって、かつての同級生であるケンスケが、事情を知った上で自分を信用してかくまってくれるということは、大きな出来事だったでしょう。もしかすると、ケンスケは、ミサト直属のヴィレの秘密隊員のような存在だったのかもしれません。ヴンダーの艦長であるミサトからの要請を了承し、危険を承知で、アスカをかくまっているのでしょう。後に、アスカがヴィレのヴンダーに戻るときに、ケンスケは、「ミサトさんから頼まれていた」と言って村の写真をアスカに託し、その写真は、ヴンダーの中では「担当者が撮影した第3村の記録」と説明されます。
ケンスケは、ミサトと彼女の恋人、加持リョウジや彼らの息子(名前は父親と同じ加持リョウジ)に関する秘密も詳しく承知していて、ミサトからの信頼の高さもうかがえます。そして、そのケンスケに保護されたアスカは、苦悩するシンジを気遣い、食事をとらないシンジに無理やり栄養食を食べさせたり(少々乱暴なアスカ流のやり方ではありますが)、ネルフの外では長く生きられないはずの仮称アヤナミレイを気遣い、シンジに「初期ロット(仮称アヤナミレイのこと)、 ちゃんと動いてる?」とたずねたりもしていて、彼らとの間に結ばれつつある絆もうかがえます。 アスカは、仮称アヤナミレイに、「あんたたちアヤナミリーズは、第3の少年(綾波レイ、式波アスカに続いてエヴァンゲリオンパイロットに選ばれた碇シンジのこと)に好意を持つように調整されてる」と告げますが、仮称アヤナミレイが「でもいい」、「よかったと感じるから」と答えると、シンジの居場所を教え、その後、ふたりの姿を、何度も陰から見ていたりもします。こうした体験の中で、アスカは、自分の新しい可能性を感じるようになり、映画の終盤でシンジに救出されたとき、「私に居場所を与えて」と思っていたこれまでの自分を振り返ります。孤独な少年少女の居場所だった『エヴァンゲリオン』は、終わってはいけなかったのかもしれません。しかし、いつかは、『エヴァンゲリオン』にも終わりが来て、もう、新しい『エヴァンゲリオン』が作られなくなるときがきます。だから、最後の『エヴァンゲリオン』である 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では、とうとう、エヴァパイロットたちの、新しい世界での新しい居場所の可能性が示されるような物語が描かれたのでしょう。
「十四年後」の世界で、十四歳のままなのが、もし、シンジだけなら、竜宮城から帰ったば かりの浦島太郎の世界に似ているかもしれませんが、同じエヴァパイロットのアスカも十四歳のままという、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』から描かれてきたこの不思議な世界は、いったい何なのでしょう? (シンジやアスカの成長が止まっていただけだと言ってしまえばそれまでですが)十四年の眠りから覚めても、十四年前と同じ十四歳の姿のままであり、ヴィレの中でも、「仮称シンジ」と呼ばれることさえあるシンジは、本当のシンジだったのでしょうか? そして、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に登場していた綾波レイとそっくりなもうひとりのレイは、本当に、綾波レイとは違うのでしょうか? 第3村で、仮称アヤナミレイは、自分に名前を付けて欲しいとシンジに頼みますが、シンジは、とうとう新しい名前を思いつかず、「綾波は綾波だ」と言い、仮称アヤナミレイは、考えてくれてうれしいと答えますが、その直後に消えてしまった仮称アヤナミレイの第3村での体験を、初号機の中に閉じ込められていた綾波レイが知っていたことが、映画の終盤で示唆されます。人類の滅亡につながるゲンドウの人類補完計画をシンジが阻止して、初号機の中の綾波レイを救出しにやってきたとき、その場面を表現するイメージの世界で、綾波レイは、ボロボロの出来損ないのような人形を抱えていました。そして、その人形には「つばめ」と書かれていました。「私はここにいる」と言っていた綾波レイは、「もうひとりの君は、こことは別の居場所を見つけたよ」と話して新しい世界への旅立ちを促すシンジの話を受け入れます。「つばめ」と書かれた人形を、ボロボロになるまで抱いていた綾波レイは、初号機の中で、あの仮称レイが第3村で体験していたことを、そのまま、夢に見ていたのかもしれません。第3村にやってきた仮称アヤナミレイの体験は、綾波レイが見ていた夢の世界そのものだったのではなかったのか? かつて、初号機に取り込まれてしまうとき「私はここでしか生きられない」と言っていた綾波レイは、第3村でのレイの体験によって、新しい自分の可能性に気づき、そのことで、とうとう、閉じ込められていたエヴァの中から解放されたのではないか? 虚構の中の虚構のような第3村が、綾波レイの新しい現実につながっていた。そんな風に思える結末でした。
第3村からヴィレの戦艦、ヴンダーに戻ったシンジがハッと目覚めるシーンも、まるで、第3村がシンジにとっても夢の中の世界だったことを表しているようにさえ見えます(シンジがハッと目覚めるシーンは、『エヴァンゲリオン』の中で何度も出てきます)。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』には、ほかにも、虚構と現実との関係を問うような場面 があり、例えば、終盤でのシンジとゲンドウの直接対決を描くイメージシーンの背景にも注 目したいところです。南極で始まったはずの対決であるにもかかわらず、エヴァ対エヴァの対決シーンの背景には、シンジの記憶の世界が次々と現れますが、そこで現れる第3新東京市の街は、明らかに、特撮のためのミニチュアセットであり、家や建物は、不自然な軽さで床の上を動き、強い虚構感が表現されます。ここには、明らかに撮影現場が表現されていて、直接描かれていなくても、映画の制作者が画面の中にはいっているようなものです。この終盤のシンジ対ゲンドウの直接対決の舞台は、人間には通常の認識ができず、過去の記憶によって間接的に認識できるだけという「マイナス宇宙」なので、シンジの記憶の世界を再構成して様々なイメージシーンを登場させることのできる「なんでもあり」の世界とも言えます。そして、大詰めで、シンジが綾波レイを救出する場面で、ふたりが立っているのは、ケンスケの家を思わせるようなシャッターのある簡素な部屋ですが、その壁には、『新世紀エヴァンゲリオン』の映像が、映写機で映し出され、レイに「新しい世界」への旅立ちを促すシンジの言葉を受けてレイが口にする「ネオンジェネシス」という言葉は、単なる「新しい世界」という意味にとどまらず、『新世紀エヴァンゲリオン』の英語タイトル『NEON GENESIS EVANGELION』の「NEON GENESIS (ネオンジェネシス)」でもあり、この映写室には、 『エヴァンゲリオン』の観客もはいっているかのようです。シンジが綾波レイを救出するときのイメージシーンの背景は、カメラや照明機器のある簡素な撮影スタジオのような部屋で、第3村のケンスケの家やトウジの診療所のイメージにも重なる質素な感じのものですが、実際、アスカが持っていた人形の着ぐるみを着たケンスケの姿も、このシーンに、一瞬、現れます。この少し前の、アスカが救済されるイメージが描かれる場面では、幼いアスカの前に、アスカが持っていた人形が大きな姿で現れ、中からケンスケの姿が現れて、幼いアスカの頭を撫でるシーンがあります、そのシーンを演じたケンスケが、レイの救済シーンの映写室に立ち会っているようなイメージであり、『エヴァンゲリオ ン』の登場人物が、『エヴァンゲリオン』の制作者と一緒に映像に写っているかのようです。また、アスカにとっては、十四年後の世界を旅したことの意味について、大人になったかつてのクラスメートから、自身が幼いときに愛情を与えられずに空白になっていた心を埋めてもらうためだったという意味もあるということが示唆されるような終盤です。虚構の中に現実がはいりこんでいるような描き方は、『新世紀エヴァンゲリオン』の完結編 『THE END OF EVANGELION』(一九九七年夏公開)の終盤で、実写による映画館の客席の映像を画面に登場させる描き方などにも見られたもので、そのときの実写映像は、一九九七年春に公開された映画『シト新生』の新宿ミラノ座での上映のさいに撮影されたもので、 そのミラノ座が閉館するさいの二〇一四年十二月のラストショーでも『THE END OF EVANGELION』が上映されました(余談ですが、筆者にとっては、そのときの鑑賞が、『THE END OF EVANGELION』の映画館での十三回目の鑑賞でした)。

このように、虚構の中に現実がはいりこんでいるような描き方は、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〔新編〕叛逆の物語』(二〇一三年)でも顕著であり、そこでは、冒頭で映画館 への道が示され、スクリーンが描かれ、カウントが現れてから映画の物語が始まり、ラストの「終劇」も、スクリーンの中のスクリーンに映されているように、昔の映画のスクリーンのようなチカチカとした光まで描かれています。こうして『魔法少女まどか☆マギカ』へと受け継がれた虚構と現実の関係を問う姿勢は、さらに『かがみの孤城』にも受け継がれ、そこでは、虚構の世界の意味が、力強く描かれることになります。『エヴァンゲリオン』を、『魔法少女まどか☆マギカ』や、小説『かがみの孤城』と比べると、とても興味深いことが見えてきます。
『夢の中の第3村-「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』(北村正裕著)では、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を含むアニメ『エヴァンゲリオン』シリーズ(庵野秀明総監督)と、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之総監督)、そして、小説『かがみの孤城』(辻村深月作)を、ジャンル横断的に論じているので、『エヴァンゲリオン』に興味をお持ちの方や、小説『かがみの孤城』のファンの方には、是非、お読みいただきたいと思います。ただし、同書第二章~第四章に関しては、小説『かがみの孤城』(十七年単行本または二十一年文庫版)を最後まで読み切ってからにしてください。小説『かがみの孤城』は、初読時のラストでの驚きをともなう感動体験がとても貴重なものになるはずなので、小説を読み終わる前にネタバレ情報に触れてしまわないようにご注意ください。


〔付記〕
『夢の中の第3村-「エヴァンゲリオン」「まどかマギカ」と「かがみの孤城」の芸術論』
(北村正裕著、2022年1月、Kindle版電子書籍)は、小説『かがみの孤城』と、アニメ『エヴァンゲリオン』、『魔法少女まどか☆マギカ』について論じる作品論で、第一章と第五章では主に『エヴァンゲリオン』シリーズ、特に、二〇二一年三月に公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』について論じています。そして、第二章で、『かがみの孤城』の連載版から十七年版単行本への大改作についての詳細な検証を、第三章では、『かがみの孤城』を、学校で傷つけられた子どもたちとフリースクールの時価軸という視点で論じます。さらに、第四章では、小説『かがみの孤城』とアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』を比較しながら両者の特徴について考えていきます。『まどかカギカ』劇場版3作品については必要なあらすじ解説をしながら『かがみの孤城』との比較をしていきますが、『夢の中の第3村』の第二章~第四章は、小説『かがみの孤城』既読の方のための章ですので、これらの章を読むのは、小説『かがみの孤城』を読み終えてからにしていただけるようにおすすめします。

『夢の中の第3村』(北村正裕著、2022年1月、Kindle版電子書籍)商品ページURL(Amazon)
https://www.amazon.co.jp/dp/B09PMMW9HS/ 


【22年11月12日追記】
22年1月に電子出版した『夢の中の第3村』の内容を再構成したものが、『「かがみの孤城」奇跡のラストの誕生』の書名で、12月に彩流社から出版されることになりました。
小説『かがみの孤城』(辻村深月作)を読み終えた方で、その奇跡のようなラストの誕生の背景について興味持たれた方には、是非、お読みいただきたいと思います。

彩流社の情報ページ
https://www.sairyusha.co.jp/book/b10025211.html

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