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渇愛と慈悲

何故人は苦しむのか、仏教にはこのような考え方があります。
人間は生きることの実感を求めるために何かに愛着します。それは、色・形、音声、香、味、接触の五種類であるといわれています。つまりは、財産であったり、名誉であったり、恋人であったり、妻子であったり。しかし、これらはすべて手に入るわけでもなければ、手に入ったとしても永遠に手中に収めておくことはできません。これらはすべて無常です。この世はすべて変化していきますから。しかし、人は、その無常のものに愛着します。永遠に手中に収めたいと望むのです。これを、渇えた人が激しく水を求めるようなやむにやまれぬ思い、またいつまでも癒えることのない渇きに比して、「渇愛」と呼ぶそうです。
苦しみは、その無常のものを永遠に手にしたいという渇愛と、常に変化しつづける現実の世界、もしくは愛着との相いれない齟齬により生まれるのだそうです。渇愛が癒されれば苦しみは消えます。ですが渇愛が癒されることはないのです。このような認識を、「無明」といいます。明かりが無い、ということなのでしょうか。

しかし、愛は苦しみのみに向いているのではありません。この渇愛がすぐれた人格や、真理に向いた場合、この愛によって人格的な向上が可能にもなるのです。小乗仏教から大乗仏教への流れの中で、「慈悲」という言葉が生まれます。
「愛は貪欲煩悩の心で行なうべからず。慈悲の心をもって行なうべし」
利己的思いの混じった愛を越えた愛、それが「慈悲」です。この慈悲をもって愛するなら、愛着も渇愛とは一概に言えなくなります。
慈悲の「慈」は喜びを与えること、「悲」は苦しみを除去することです。いずれも他者のためを思うことであり、渇愛のような利己的欲望の排除を意味していますが、正確には誰かの為に、というのではなく、完全な慈悲においては、誰かの為に云々といった自他の分別意識は捨てられます。
渇愛からくる無明は、自己と他者をそれぞれ実体のあるものとして執着することにもとづいており、そこから利己的な欲望の世界が形成されているそうです。この自他などの差別的観念がなくなったとき、平等な世界を直視できるようになります。それには自己も他者も実態のない空であるという真理に到達すること。そうすることで空そのものとしての慈悲、自分も他者もない慈悲があらわれるのだそうです。

これはインドの哲学に出てくるアートマンという概念にも通じます。アートマンとは、自我の本性、真実の自我などと約されますが、人はこのアートマンを自覚すると、もはやいかなる意味においても自己意識から開放され、宇宙そのものである絶対者ブラフマンと同一になっていることが体認されるそうです。ブラフマンとは、宇宙の創造主であり、また宇宙そのもの、つまりこの世界そのものです。世界そのものであるということは人間も含まれます。逆にいえば我々人間もブラフマン、つまり世界であり宇宙であるということなのですね。我々が宇宙であるということは、そこにもう自他の境はなくなるわけです。他人が喜んでいれば、それはすなわち自分が喜んでいることになるのです。

渇愛から慈悲(慈愛)への移行、この仏教やインド哲学の思想が、苦しみを取り除く一助となるかもしれません。

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