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訃報:ダブルウーファーズ会長 永瀬宗重先生

 それはゴールデンウィークが始まって程ない4月30日、季刊誌と月刊誌の締め切りが重なるタイミングで、ヒイヒイいいながら原稿を書いていたら、1通のメール着信に気が付いた。

■人生の師、喪失を伝えた1通のメール

 表題の言葉は、私には何を書いているのかしばらく判別できなかった。何度も見返してやっと分かったその一文には、「永瀬宗重氏、訃報の件」と書かれていた。何……、だと!

 永瀬宗重(ながせ・そうじ)先生。わが地元、茨城県守谷市の地域医療を支える内科医にして、多分日本一活発で豪壮なオーディオサークル「ダブルウーファーズ」の会長を長く務められた人だ。


永瀬宗重先生。永瀬内科のホームページより拝借した。この写真こそ、いつもお会いしてオーディオ話に興じている時の先生の顔だ。カメラマンの君嶋寛慶さん、流用料金が発生するようでしたらご一報下さい。

■お人柄もオーディオの腕前も頭抜けた人だった

 私は2015年に守谷市へ引っ越し、そうしたらすぐ土方久明さんだったか、永瀬先生とお親しい人が引き合わせてくれた。もう初対面の日から、そのメーターを完全に振り切った膨大なオーディオシステム群にも度肝を抜かれたが、それより何より先生ご自身、常に周りへの気遣いを忘れない繊細さと豪放磊落さを兼ね備えたお人柄へ、あっという間に惹かれてしまった。

 以来、オーディオ仲間として、また私自身のかかりつけ医として、公私ともに親しく付き合わせてもらってきた。

 オーディオでは、私自身も至ってささやかながらマルチアンプ・システムを構築しており、その面ではとてつもない製品群を手足のように操り、幾通りとも知れぬシステムのすべてを完璧に鳴らし切るという類稀な手腕とノウハウをお持ちの先生は、私にとって遥か先を歩まれる得難いメンターであった。

■ムックにまでまとめられた膨大なブログ!

 永瀬先生は長年にわたって膨大な分量のブログを書き続けられており、遥か昔にさかのぼってもその情報はほとんど古びることがない。オーディオ仲間との交流や、生涯66台も購入されたクルマ道楽についての筆致も実に楽しい。


永瀬邸のリスニングルームは、3面にスピーカーがそれぞれ複数セットされている。これは部屋へ入ってすぐ正面にセットされているJBL・4350。詳しくはブログかムック本を参照してほしいが、とてつもない情熱と物量で魔改造された個体である。両脇にはゴールドムンドのフル・エピローグ、先生考案のアコースティック・ディフューザーの影からほんの僅かにオリジナル・ノーチラスも見える。

Double Woofers' ナゾ男の暗い低音は好きじゃない!
https://nazootoko4350.blog.fc2.com/

 そのブログを再編集し、何と1冊のムック本に仕立てられたのは2021年のことだった。ブログ名と同じ、「暗い低音は好きじゃない!」と名付けられたこの本は、上梓の報を先生から伺ってすぐ地元の本屋へ飛び込んだが、残念ながら在庫されておらず、仕方なく秋葉原へ出た際にヨドバシカメラ7Fの有隣堂で購入したものだった。


2005年の2月から書き続けられた膨大なブログを凝縮して1冊にまとめ上げたムック本。あまりに膨大すぎるブログから情報を当たるのは至難の業ゆえ、私は主にムックを愛読している。

CDジャーナルムック 永瀬宗重・著 暗い低音は好きじゃない! https://www.cdjournal.com/Company/products/mook.php?mno=20191211

 その有隣堂ヨドバシAKIBA店も、残念ながら2023年の1月に閉店してしまった。本当にいい書店だったし、特に場所柄オーディオ関連の書籍・雑誌が豊かで、絶版になるまで私の単行本もずっと置いてくれていたものだ。まことにもって寂寥の感に堪えない。有隣堂という書店は非常に特色ある店づくりをしているので、末永い繁栄を祈っている。


ぬいぐるみキャラクターのブッコローが面白い有隣堂YouTubeページ https://www.youtube.com/@Yurindo_YouTube

■チャンデバの試聴でお邪魔したことも

 毎度申し訳ない。話が反れた。月刊ステレオ誌の2022年7月号では、イタリアM2TECH社の3ウェイ・チャンネルデバイダーMITCHELLを永瀬邸へ持ち込み、往年の名器パス・ラボラトリーズXVR1とガチンコで比較するという企画も行った。これ、実は私が編集と永瀬先生に持ち掛けて実現したものだ。


伊M2TECHのチャンネルデバイダーMITCHELL。3ウェイのピュアアナログ方式ながら、PCを接続してスロープの方式や急峻さを設定することができる異能のマシンである。永瀬邸でのテストはもちろん私も立ち会っていたが、あまりにも色っぽく肌艶の豊かなサウンドに落涙を禁じ得なかった。先生がかけて下さった中本マリや玉置浩二の音源が素晴らしすぎたせいもあるが、MITCHELLの素性の良さがあることも疑いようがない。

 その企画は私が執筆したが、現代ハイエンドを代表するような大スケールで品位の高い音を聴かせるパスラボと、もうエロティックとしかいいようがないような潤いと艶やかさを聴かせるM2TECHという、豪華極まる真剣勝負は本当に涙ものだった。先生はお買い上げにこそならなかったようだが、ニコニコしながらお聴きになっていたのが深く印象に残る。

■さまざまな人が集まる永瀬邸

 先生のリスニングルームへは、さまざまなメーカーやオーディオ人士が訪れられる。特に無名だがいい技術を持つガレージメーカーの主が訪問される際など、「〇〇日は空いてるかい?」とすぐ電話を下さるものだから、予定のやり繰りがつく限りすっ飛んでいったものだ。それでずいぶん多くのメーカーや職人さんとご縁ができたし、物凄い幅広さのハイエンド・サウンドを体験することもできた。わが家ではとてもかなえられない贅沢である。

 オーディオサークル「ダブルウーファーズ」の会長を務められていた永瀬先生は、そちらの方でも数多くのご縁を私に授けて下さった。とりわけ、副会長のリベロさんへご紹介いただき、リベロさんの豪壮極まる別荘と装置を体験できたこと、そして再会を含め、数多くのオーディオ人と出会えたことは、わが生涯のかけがえない財産として残る。


リベロさんのブログ「週刊リベロ」より拝借したリスニングルームの写真だが、これでは大きさが分かりにくいと思う。白いフロアホーンの奥に4つ見えているウーファーが全部38cmだと申し上げれば、その巨大さがお分かりになるだろうか。ただデカいということではなく、このシステムからは他で全く聴いたことのない豪壮雄大猛烈なスケールとスピード感の超サウンドが放出される。生涯のうちに体験できたことを感謝する外ない。

リベロさんのブログ「週刊リベロ」

■私が今あるのも先生のお蔭

 一方、先生のご本業では、私は命を救ってもらったことがある。何かの喩えではなく、文字通りの意味で、である。

 2015年の秋だから、まだ茨城へ引っ越して半年ほどの頃だ。4年ほど前からどうにも体調が思わしくなく、70kgほどもあった体重が51kgにまで減少し、それでも前年までは「痩せたけど体調はいいんですよ」と強がりを言っていられたが、茨城へ越してから突然足の親指が黒紫に腫れ上がって歩けなくなったり、それまでも散発的にあった胸の差し込まれるような痛みがいよいよ強くなったりしていた。

 それは多分外科的な症状であろうと、永瀬内科ではなく近隣の外科へかかったが原因が全然つかめず、神経内科やアレルギー科など、次から次へと診療科をたらい回しにされた挙句に匙を投げられる、という困った次第になっていた。

 そんな状況の中、その年の音元出版アクセサリー銘機賞の選考会当日、会場への移動中に強烈な胸の痛みが襲った。電車のシートに腰かけていたのだが、そこからくずおれてしまうほどの痛みだ。それでも選考会へ穴をあけるわけにいかないから這うようにして会場へたどり着き、何とか選考会を無事済ませて帰宅した。しかし、その時は翌日には何事もなかったように痛みが治まり、「まぁ大丈夫か」と医者へもかからずに過ごしていた。

 その時に「炭山君、今日はもう帰った方がいいよ」と口々にご心配を下さったアクセサリー銘機賞選考委員の諸先輩方、そして編集子の皆様へは、改めてご迷惑をかけたお詫びと感謝を申し上げねばなるまい。ありがとうございました。

 それからしばらくは、いろいろな指の先が腫れ上がったりはするものの、そう大きな問題もなく過ごせていた。ところが、翌月のミュージックバード「音のびっくり箱」収録のため、つくばエクスプレス守谷駅で電車を待っていた時に、再び先日と同じくらいの胸の痛みが襲ってきた。

 またしてもホームのベンチへ腰かけていられなくなり、地べたへうずくまってしまったところで「君、大丈夫かね。私は医者だ」と声をかけて下さったお医者様もおられたのだが、「ありがとうございます。駅からすぐのところにかかりつけのお医者様がおられるので、そこへ向かおうと思います」とお申し出を丁重に断り、ホームを出て永瀬内科へ向かった。

 それにしても、急病人へ走り寄って声をかけて下さるお医者様をお見かけしたのは、これが初めてだった。まるでドラマのようなシーンだが、本当に仁術へ携わる方はこのようにして下さるのだなと、感動したものだ。しかし、まさかその初体験が自分に降りかかった急病だとは想像もしていなかったが。

 駅から徒歩数分のところにある永瀬内科へ飛び込み、診察を受ける。私のただならぬ状況を見た先生はすぐ心電図を採って下さり、そうしたら異常なデータが出たのであろう。墨痕淋漓たる筆跡で、とはいっても万年筆であったが救急の紹介状をしたため、これを持って近隣の少し大きな病院へかかるよう促された。

 すぐに車で数分のところにある病院へ行ったら、先生が連絡を取って下さっていたのであろう、救急口へ回されて診察を受け、心エコーを採ったら何やら大きな瘤が心臓の中に見える。左心房粘液腫と呼ばれる良性の腫瘍であろうということだった。

 そこから再び紹介状が出て、近隣の市にある大病院へ行く。永瀬内科で診察を受けたのが火曜日、大病院の予約が取れたのはその週の金曜だった。

■何と来院即日手術へ
 
診察を何事もなく受け、手術の予定を打ち合わせるつもりで待っていたら、厳めしい顔をした白衣の先生が突然私へ近づいて、「これから手術をします。ご家族を呼んで下さい」などと物騒なことを仰るではないか。

 エコーを見ると、確かに大きな腫瘍が左心房と左心室の間にある僧帽弁へ時折張り付き、血流をほんの一瞬止めてはまた剥がれるという動作を繰り返している。これが弁を完全に塞ぐ、あるいはある程度大きな塊が脱落して血管に詰まると、そこで突然死ということになっていたらしい。

 大慌てで仕事中だった妻を呼び寄せ、私はもう看護師さんのなすがまま、首から下の体毛をバリカンで刈られ、ストレッチャーへ載せられて手術台へ。当日私は37℃台の微熱があったのだが、「あー、熱がありますね」くらいでスルーされた。そんなどころではなかったのだろう。

 手術が始まったのは確か午後3時過ぎ頃、私が目覚めたのは翌朝だったが、妻によると午後10時頃までかかっていたそうだ。緊急だったというのに、長時間の手術を敢行して下さった先生方と看護師の皆さん、そして猛烈な激務であるにもかかわらず退院まで欠かさず見舞いに訪れてくれた妻へは、本当に足を向けて寝られない。

 というような次第で、術後入院1カ月、リハビリには3カ月ほどもかかったが、無事社会復帰を果たすことができた。ミュージックバードの番組も月刊誌の連載も全く穴を空けずに済ますことができたのは、各所の協力もあってのことだが、本当にありがたかった。

 退院後、帰宅する前に永瀬内科へ寄って報告差し上げたが、先生は本当に喜んで下さった。そこで知ったが、当日手術を決断され、執刀して下さった先生は、永瀬先生と同期のお医者様だったとか。思わぬところでご縁がつながったものだ。

■何かに導かれたような生還劇

 すべて終わってから知らされたが、左心房粘液腫という病は胸の痛みが出るものではないそうだ。ということは、私は全然関係のない痛みにより飛び込んだ永瀬内科で、死へ至る病を発見するきっかけを得たことになる。

 この話を聞いた信心深い亡母は、「あんた、神さんに助けてもろうたんやで」と繰り返していた。その息子は神も仏もない生活をしているが、不思議すぎる縁を感じざるを得ないのも事実だ。母親と彼女の信仰していたお稲荷様へ、たまには手を合わせるとするか。

 ちなみに件の「関係ない胸痛」だが、左心房粘液腫の手術が終わったら全然出なくなった。まるで関係のない病変を見つけ出すためだけに現れたような痛みに、やはりいささか超自然的なものを感じざるを得ない。

■還暦前後にご用心

 ところで、私とほぼ同世代の同業者、業界関係者で、命にかかわる病に見舞われる人がこのところ相次いでいる。村井裕哉さんは今から5年前の2018年、60歳の若さで急性白血病により世を去られた。月刊誌など、村井さんの執筆原稿と追悼文が同じ号に掲載されるほど突然に旅立たれたものだから、私自身を含めた業界人もファンの皆さんも茫然自失だったような記憶がある。

 一方、鈴木裕さんと生島昇さんは、危ないところでこちらへ戻ってきて下さった。お2人とも病前と全く同じ活動をなさるのは難しくなったかもしれないが、今後のご活躍を全力で応援したいと思う。

 つい先日も、中学~高校と同級だった京都大学の教授が急逝したと、地元の友人から連絡をもらった。人生100年などといわれるが、還暦を迎える前後、人は何か大きな篩にかけられるのかもしれないな、などと感ずるところだ。私はすんでのところで永瀬先生はじめ、医療スタッフの皆様にすくい上げてもらった。本当に運が良かったし、ご縁の賜でもあろうと思う。先生方に拾って頂いたこの命、せいぜい大切にして長生きせねばなるまい。

■研究医としても高い業績

 ところで、永瀬先生はただの町医者ではなく、長年にわたって筑波大学の医学部で助教授として教鞭を執りつつ、研究医として膨大な量の論文を書かれていたそうだ。当時学部内で最もたくさんの研究者から参照される論文を書かれたのは、永瀬先生だったと聞く。その後、いろいろあって地方の大学で教授を務められた後に、縁のあった守谷市で開業されたという。

 そんな先生だからであろう、私の指先が腫れ上がる症状と左心房粘液腫に関連性があるのではないかと、原因を探って下さった。全国の研究医にその情報は回ったろうから、何か有意の情報が上がっていたのかどうか、聞きそびれてしまったのは残念至極だが、今となってはもう取り返しがつかない。

 かくのごとく、医師として、オーディオマニアとして、そして1人の人間として、永瀬先生はとてつもなく大きな道を後続へ拓いていって下さった。享年68歳とあまりにも早すぎるお別れに、私自身もそうだが多くの人が道筋を1本見失ってしまったような状況なのではないか。

 わが人生の師匠たる長岡鉄男氏を失ったのは今から23年前、2000年5月のことだった。長岡氏の場合はそれでもバックロードホーンやゲテモノ優秀録音の探索など、曲がりなりにもいくつかの軌跡を引き継ぐことができたが、永瀬先生の場合はあまりにも一つひとつのスケールが大きすぎ、私が引き継ぐことのできるものが何もない。

 あまりにもミニチュアの坪庭的世界だが、それでも永瀬先生が生涯追い求められたマルチアンプの世界は、私も数々の実験を行ってきた。先生の境地へ達することは300年かけても不可能だろうが、それでもマルチの楽しみを1人でも多くの人へ伝えていくことが、先生への供養になるかなと考えている。


アムレックのチャンネルデバイダーAL-60CD。僅か6万円で-84dB/octまでのスロープが得られるデジタルチャンデバなのだが、残念ながら現在品切れ。三上忠道代表によると、電源OFF時のポップノイズが危険とユーザーに指摘され、ただいま改良作業中とか。パワーアンプから電源を切るようにすれば何の問題もないのだが、停電時などごく稀にポップノイズで高域ユニットを破損することがあるので、改良自体は正解だと思う。実は本機、永瀬先生に紹介したら「面白い。買おうか」などとおっしゃっていたのだが、間に合わなかった。悲しくて仕方がない。

アムレック
http://www.amulech.com/


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