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「南風の頃に」第二部 7 山野紗季

山野紗希が珍しくバーを越える練習をしている。いつもは踏切から跳び上がるところまでなのに今日はマットを敷いてクリア練習を熱心にやっている。札幌地区新人戦が近づいて練習の質が変わってきた。いや、練習だけじゃなく、彼女の表情もいつも以上に真剣に感じた。彼女は全道大会で南ヶ丘唯一の全国大会出場資格を得たのだが、全国大会にはいかなかった。上野先生が自分の高校の選手と一緒に引率できるからと翻意を促しても、彼女が一度決めたことを変えるはずはなかった。

「こんなんで出てもしょうがないから。やり直すから」
という理由なのだが、彼女の価値観から下された決断だったのだろう。他の部員たちに遠慮するだとか、一人では楽しくないだとかそんなかわいい理由ではないようだった。

川相智子は僕と並んで山野紗季の動きを追っていた。2人とも自分の未熟な跳び方をどうにかしたかった。何とか山野沙希を手本にして変えようと考えていた。
山野紗季は跳び上がるというよりも、軸足に乗って身体の方向を変えるような跳び方をする。振り上げた足で見えない階段を上がって、そこに真っ直ぐに立ち上がるように身体を持ち上げている。強い脚力でジャンプするという感じは全くなく、助走スピードを落とすことなくそのまま方向を上に変えているような感じがした。助走の最後の3歩でも重心をあまり下げることなく、軸足である左足をまっすぐに1本の棒にして、そこにエネルギーをすべて溜め込んで上に向かう上昇エネルギーにしている。助走は水の上を2本の足で走りながら飛び立つ水鳥のようだ。100mを12秒台で走るスピードを十分に活かしたスムーズな跳び方をしている。

「沙希ちゃんは、やっぱり天才だよね! あんなに綺麗な動きなんか出来っこないもの」
川相智子はいつでも山野紗季の動きを追って自分との力の差を嘆いてばかりいる。山野紗希の動きに合わせて小さく揺れる彼女の頭のてっぺんが僕の目の高さにあった。川相智子の方が身長も高いし、サージャントの記録もはるかに上だったが、スピードが全く違った。100mで12秒台の記録を持っている選手は札幌でも何人もいない。

「沙希ちゃんさ、この前のテストで学年3番だって! 知ってる?」
川相智子は嫌なことを言いだした。
「うん」
「すごいよね。なんでもすごいんだから。」
「うちの担任の大森先生がさ、ここの学校の生徒は頭いいんだって。だから、……」
「私、全然かなわない」
「武部が言ってたけど、中学の時1番だったんじゃないの?」
「でも、レベルが違うみたい」
「それじゃ、オレは全く場違いな学校にいることになる」
「そんなことないよ。みんな野田くんがいるから楽しいって言ってるもの!」
「いや、勉強できないってことさ」
「武部くんから聞いたけど、野田君って塾に行ったことないんだって?」
「田舎だったから、塾に行ってる奴の方が少なかった」
「でも、南が丘に合格したでしょう。すごいんじゃない逆に!」
「倍率割れたからさ!」
「でも、本当はびりじゃないでしょう?」
「302番……」
「ちゃんと合格圏に入ってる!」
「そんなの慰めにならないって。川相さんだって16番なんだろう!」
「なんで知ってるの?」
「武部が何度も自慢してたよ。」

「私、思うんだけど……、きっと早くに結果の出る人と後からすごい結果を出すようになる2通りの人がいるんだよ。『最後に笑うものが1番よく笑う』っていうでしょう。人間が大きくなるに従ってだんだん広い世界に出て行って、その中でもちゃんと結果を出せる人が本物のすごい人なんだと思う。野田君はいっつも謙遜して自分のこと悪く言うけど、ちゃんと結果出してるよね。だから、野田くんは本物なんだと思う。今までそんなに注目されてなかった人が一気に大ブレークするってことあるでしょ。きっと、野田君はそうなるんだよ。全道大会見てたら別な次元の人みたいだった。」

「あのさ、そんなレベルじゃないって。なんだかよくわかんないうちにまぐれが続いただけ。走ったり投げたりはさ、野球やってたから。それだけでしかないんだ」
「清嶺高校の中島さんが、全国レベルの人みたいな力強さだって言ってた。あの人、去年中学の全国大会に行って高いレベルの人いっぱい見てきてるからよくわかるらしい。野田君は陸上始めてちょっとしか経ってないけど、上野先生のところで教えてもらったことすぐ実行できてしまうじゃない。普通はそんなことないよ。私なんか全然身に付かない。他の人より一生懸命やってるつもりなんだけど、違うんだな、何か」
「だから、僕の勉強もこの学校のレベルにないから伸びないんだよ。」
「それは違う! 野田くん勉強してないでしょう! 授業は真面目に受けてるみたいだけど、今まで勉強にかける時間少なかったみたいだから、まだ勉強不足なんだと思うけど」
「それは、川相さんの運動にかける時間と同じことかもね」

「智子……」
セーフティーマットの上から降りた山野紗季が叫んだ。
「40で跳んでみる?」
「いや、そのままでいい。45でやってみるから!」
川相智子の顔に厳しさが宿った。自分のベスト記録の1m48㎝に近いこの高さを山野紗季はフオームの練習用に難なく越えている。山野紗季への対抗心が感じられた。
バーを支える右側のスタンドから外側に1メートルふくらんで11歩の助走をとった川相智子がスタートをきった。膝を高く上げ、足首とつま先のバネを使って跳びはねるような助走だ。3歩前で大きく沈み込み両腕を大きく振り込んでジャンプ。身体は上がった。腰のあたりからマットに落ちた後から白黒の縞模様が鮮やかなバーも落ちてきた。
「結構上がってるな!」
僕の言葉に山野紗季が首を振った。
「あれじゃ無駄な力使ってるだけ。右手をもっと先に挙げてやれば身体がターンしてくれるのに」
「怖いんじゃないかな?」
「何が?」
「バーが、いや高さが、かな?」
山野紗季が僕の方を見て不思議な目をしている。
「野田君もそうなの?」
「いや、オレは身体が動かないだけ、硬いし」

つまらなそう顔をして川相智子がやって来た。
「あの高さ、怖い?」
「怖くないけど、なんか自信なくて」
「楽に越えられるだけ身体浮いてるのに」
「ほんと?!」
川相智子の目が大きくなった。
「50以上は跳べてる」
僕が言うと、山野紗季が厳しい言葉を重ねた。
「あそこまで上がってクリアーできないんじゃ試合にならないよ! 私より高いところまで浮いてるじゃない!」
「ホント! そうなの?」
うなずいた僕の方は見ずに、目をバーの方に向けた川相智子は続けていった。
「50跳べるかもしれない?」
「今ので跳んでもおかしくない。ここの土のグラウンドであそこまで上がったら、試合ではもっともっと浮けるはずだよ」

「一度さ、バーの下にしゃがんで下から見上げてみたら?」
山野紗季が不思議な顔を向けた。
「なに? なんかあるのそれ? 下から見上げるって?」
「ちょっとね、なんかの本に書いてあった。高いっていう意識をなくすのにね、自分の目に錯覚を起こさせればいいんだって。しゃがんで高いバーを見たらそのまま後ろ向きでスタートまで戻ってから、あらためてバーを見ると低く見えるってこと。気分的にそうなっちゃう人もいるってことだろうけど、僕はなりそうだった」
「おまじないだね」
「高跳びって、そういう微妙な精神的な部分があるだろう。前の高さから2センチしか上がらないのに全然跳べなくなっちゃうみたいな。2センチなんて、たいした変わんないでしょ! なんかこの種目って、自分の気持ち次第で変わっちゃうって部分、大きくないかい?」
「そんなの根本的な解決にならないよ!」

山野紗季とのそんな会話の最中に川相智子がいつのまにかバーの下にしゃがんでいた。
「ほら!」
「……そういう問題じゃないよ! 技術的なことで解決しなきゃ……」
川相智子はスタート地点に戻り、じっとバーを見つめてから助走を開始した。踏み切った後に振り上げ足に身体をのせるような動きが加わった。腰が伸びた。そのままおなかを真上に向ける姿勢でバーを越していた。足を跳ね上げ顎を引いた着地がきれいに決まった。
「やった!」
「あっ!」

「なんぼよ? ずいぶんきれいに跳んでたな! 川相だろ?」
珍しく沼田先生がやって来た。
「145ですよ!」
山野紗季の言葉が高揚している。
「ずいぶん浮いてたな!」
「15㎝は浮いてました」
僕の声は少し高くなっていたかもしれない。
「160……ということ?」
山野紗季の顔が紅潮している。
「なんか、わかったような気がする!」
川相智子が戻ってきた。
「川相はサージャントかなり良かったな! スピードない分かえって真上に上がれるようだな……」
沼田先生は2人の顔を見比べた。

上下動の少ないスピード豊かな助走をする山野紗季と、跳びはねるようなゆったりした助走から真上に跳び上がる川相智子。性格同様に対照的な跳び方の2人が今、本物のライバルになりかけていた。
「これからはお前達2人で競えそうだな! 来年は2人して全国行くぞ!」
沼田先生は楽天的で良い。でも、この2人の気持ちは別なもののようだった。
「川相! 100mのタイムは?」
「14秒2です」
恥ずかしそうな川相智子の答えだった。
「そうか……、もう少し多めにダッシュと、バウンディングやっておくか。スピードが上がるとな、もっと余裕もって助走できるようになるぞ」
「はい! やってみます」
川相智子の口調がさっきまでとは違った。山野紗季に対する劣等感ばかりを並べていた彼女に出口が見つかったようだ。

「でよ、野田! タクはどうしたんだ? 今日は来てないのか?」
「タックンはまだ教室で学校祭の準備委員会に参加してます」
山野紗希がさっきまでとは全く違った表情で、何か楽しいことを隠しているような話し方をした。 
「そっか、タクはまた女の子追っかけてんだな」
沼田先生のその言葉に、女の子二人は声をあげて笑った。

新人戦を前にした土曜日に清嶺高校との合同練習に参加した。春から何度かの練習会を経験し、そのたびに新しい練習のやり方とポイントを身に着けてきた。このグラウンドが僕にとっては授業の場であったし、塾の講習会のようなものだった。上野悦子という素晴らしい講師の先生が待っていてくれる楽しみ多い場所だった。

午前中の跳躍グループ練習で山野紗季がハードル跳び越しを繰り返していた。十台のハードルを両足で連続して跳び越していく。膝を深く曲げずに着地したらそのまますぐに跳び上がる。腕の振りと足首のバネを使う。跳び上がってからは膝を前に出し椅子に腰掛ける姿勢で、上半身を前後に倒さずにやっていた。跳び上がる高さより連続したジャンプの速さが大切だという。教えられたとおりに川相智子が続き、野田タクと僕が後から真似をする。
川相智子は高く跳び上がる分速さが出ない。そして、次のジャンプまでの予備動作が上手く行かない。タクも同じで跳びあがる高さは十分だが、ゆったりとした大きな動作のためか次につなげる動きがうまくいかない。僕は高く跳び上がる以上に力強く跳ぼうとすると前に移動しすぎてしまう。そのため、三人とも山野紗季のようにすばやくはできない。

バレーボールの選手は、跳び上がってから一仕事をする。ブロックだったり、スパイクだったり、一番高いところで空中に止まったような状態をつくって一仕事をしている。だから滞空時間が長くなる……と感じられる。ハイジャンプの選手だって一番高いところで一仕事するわけだから、普段のこういうジャンプの練習でその感覚を身に付けることが大事なのだと上野先生は言う。ハードルジャンプだったら、一番高いところで膝を曲げて、待ちの瞬間を作る、そして、着地する前に衝撃を和らげるようにつま先と膝に余裕を持たせて次のジャンプへの準備をしておく。それを何台も連続してやることで、自分の感覚としての滞空力を高められると言うのだ。そして、ジャンプの間中身体を真っ直ぐに保っていられることも大切で、自分の身体に軸をしっかり作っておくと正確に回転や動作ができるようになるらしい。

フィギュアスケートでも3回転だとか4回転だとかに成功している人は必ず身体の軸がしっかりしている。体操選手が空中で3回ひねりをしてぴたりと着地を決められるのも、軸がしっかりしていて、自分の身体を自分のイメージ通りに操作できるからうまくいっている。そういった運動をいろいろ組み合わせてやってみると、自然にバランスが取れるようになる。ハイジャンで跳び上がってから腰を浮かせたり、抜きのタイミングをつかんだりできるのも、一番高いところで余裕があると上手くいく。身体の柔軟性以上に、間を取れるかどうかが大事なのだと言われた。そういう上野先生の理論的な説明が、僕らにはきつい練習を続ける大きな力ともなっていた。

そういえば、野球では間の取り方をつかむことが、うまい選手になれるかどうかの分かれ目だった。それはつまり、自分のタイミングになるまで待てるかどうかということだ。守備であってもバッティングであっても、盗塁でさえ「間」を取れるかどうかが一番大切なことだった。
「間」は「待つこと」であり「見ること」でもあり「我慢すること」でもある。野球やテニス、バスケット、バレー、卓球などボールゲームは全て「間」が大事だ。
 自分のミートポイントまでボールを「待つ」。バッティングの「間」は「ボールを呼び込む」と言われることが多い。外野手がフライを捕る時だって、最初からグラブを構えながら走ったりはしない。最後の最後まで捕球体勢はとらないでボールをしっかり見て「待つ」のだ。
バレーボールのアタックにしてもブロックにしてもジャンプした一番高い地点で「待ち」の時間が一瞬あるからタイミングを取れるし、ボールに力が込められる。バスケットボールのジャンプシュートにしたってジャンプしてから自分の間を作ってからでなけりゃシュートしたりはしない。

スポーツにおける「間」つまり「待ちの時間」はそれぞれのスポーツの命なのだ。自分の身体を空間に置くということは必然的に落下してくるということだ。いかに高い空間まで自分の身体を放り上げられるかということと共に、いかに落下を遅らせるか。いや、落下までの時間に余裕を感じられるか。そのためにいろいろな工夫を凝らしてトレーニングを続けているのだろう。

山野紗季のハードルジャンプは見事に自分の身体をコントロール出来ていた。僕と川相智子、そしてタクはその面でかなり劣っている。

上野先生の川相智子へのアドバイスは踏切からクリアにいたる流れだった。夫である沼田先生から川相智子の高跳びの可能性を伝えられていたようで、今まで以上に丁寧に説明している。
「右手を速く動かした方が縦回転を付けられるんだよ。だから、両腕振り込みをしてから右肩を前に出すようにすると上手くいくと思うよ。顎をその右肩にのせるようにするとバーを見やすくなるし、最後に顎を引いてセイフティーランディングもしやすくなるんだよ。」

山野沙希がそれに続けた。
「縦回転がしっかり出来るようになると、バーの上でアーチが作りやすくなるし、タイミングとりやすくなる。重心に一番近いところでバーをクリアーするためにもきちんと背中でバーを越えることが必要だよ」

そう言われても、なかなかうまくできないのが僕たち二人の鈍さだった。というよりむしろ、それができてしまう山野沙希が普通じゃないのかもしれない。逆にタクのベリーロールは踏み切ってからバー上のクリアにつなぐ流れはとても上手で、上野先生も授業の見本に来てほしいというほどだ。だから、タクは南ヶ丘の練習よりも清嶺高校での練習をとても気に入っている。

午後には因縁のハードル練習だ。
「ハードルもね、間が必要なんだよ。全市大会の時は雨の中だったからね、あんまり参考にならないけど、抜きのタイミングが早かったんだよね。あの時も」
「早かったんですか?」
上野先生のこの分析はとっても意外なことだった。タイミングが早すぎるなんてことは考えもしなかった。
「うん早かったんだねー、あれはー。まだね、股関節が開ききってなくて踏切足が横回りする準備ができてなかったからね。振り上げ脚ばっかり先行しちゃったから、体がこう、左右にぶれちゃってたし、ローリングしてるような感じだったねー」
「それで、ひっかけたんですか」
「たぶんね。最後までリズミカルに行くには、体が正面向いて落ち着く瞬間が必要なんだよ。だからあのタイミングでね、伸ばした振り上げ脚にもうちょっとだけ待つ間を与えてやると、バランスよくクリアできるはずだよ。大丈夫、間を取ってもね踏切足がかえって素早く返ってくるようになるから、スピードは落ちないんだよ。いや、かえって上がると思うよ。アクセントつけて走りやすくなるしね。そのためにね、リードを両腕でやるのも一つの方法だよ。ベントを深くかけられるし、間を取りやすくなるかもしれないよ」

ピッチャーがボールを投げる時に左手でしっかりブロックして肩が回ってしまうのを抑えるのと似ているのかもしれない。腰が先に回るように左手でブロックできると我慢した分だけ腕の振りは早くなり回転のいいボールが投げられるようになる。やっぱり「間」がスポーツには大事なポイントなのだと改めて気づかされた。
 そのことが理解できてからは、練習の意義を見つけられるようになった。ただ漫然と練習をやっていても意味がないことが今更ながらわかったのだ。こんな風に自分の動きをしっかりと分析してアドバイスをしてくれる人には今までにあったことはなかった。なんとなくの雰囲気を伝えられることが多かったし、その人の経験から発せられる独自の感覚を強制されることも多くあった。
「なぜ? こうだから! この部分の動きが変われば!」
そんな説明を聞くことが少なかったのだ。
 失敗したことはいつまでも覚えている。でもその失敗の原因を見つけるのは一人では難しい。有能な監督やコーチというのはその部分をしっかりと見ていてくれるし、適切な対策を考えてくれる。沼田先生は細かなことを言うことはない。けれども上野先生と考えを共有しながらともに先のことを見つけてくれる。僕はこのまま二人の先生の指導に従う方がいい。そう強く思った。

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