見出し画像

「南風の頃に」第二部 5・マンナン

「あそこ、行ったことある、僕、道案内する」
相変わらずのET言葉を発しながら、珍しく張り切って前を歩いていた健太郎のスピードが落ちた。いつの間にか戻ってきて三人の後ろに隠れるようにしている。みんなが健太郎を振り返るのと同時に声がした。

「オーオ、ナッカガワー、じゃーねーのー」
妙に間延びした、喜びとも驚きとも思えるねばっこいしゃべり方だ。
前に視線を戻すと、両手をポケットに突っ込んで、紺のブレザーの前をだらしなく広げた二人の学生がいた。かかとを踏みつぶした黒の革靴。生え始めたばかりのようなひげを不揃いなまま伸ばした顔。眉毛の端を細くし、まばらに色の抜けかかった髪の毛をツンツンに立たせていた。思わず笑ってしまいそうな話し方や歩き方で、悪ぶって見せていても、肩幅が狭く胸板も薄いやせぎすの二人はどうしてもなり立ての高校生にしか見えなかった。

「ア、レー、山野の妹もいるー」
左側の背の低い方が、唇をゆがめて見事に同じような間の抜けたしゃべり方をした。
「……札高の、ヤンキー……、同じ中学だった……」
山野沙希が耳元で言った。

野田賢治はこの時、彼らが中学まで過ごした小さな町の仲間たちのようで「懐かしさ」さえ感じていた。しばらくぶりに自分の居場所に戻ってきたような気持にもなっていた。

自分より弱いものしか相手にできず、自己顕示欲がいっぱいなだけで自分の弱さを隠して生きている「アンチャン」たちには、強いものには徹底的に媚びるという共通点がある。強い力、強い名前、強い権力には、1も2もなく媚びて従うしかない生活をしているやつらなのだ。力の強いもの、自分より上の立場の人、警察やその逆の組織。彼らの弱点は、この3つのうちのどれかだ。そのため、極力その3つに出会わなくてもよい場所や、あてはまる人のいないところでしか安心できない。自分の弱さを更に弱いものに対してぶつけることで、自分の存在を認めさせて満足している。自分がいじめられ、従わなければならない立場にいる現状を逆転させてくれる「さらに弱い相手」を探してうろついているのだ。

健太郎を見つけた彼らは「さらに弱い相手」を発見した喜びの声を上げたのだった。健太郎が中学の時にカツアゲされた相手というのがこの連中らしい。健太郎が人とぶつかり合うわけはなく、彼らにとってはいいカモになるだけの条件が整っていた。入学したばかりの高校では先輩のご機嫌取りばかりしていたのだから、彼らにとってはしばらくぶりにいい日だと感じたに違いない。ましてや2人の女の子を前にして、悪ぶって見せたいに違いない。それがかっこいい姿だと思い込んでしまっている。

野田を先頭にして、2人と向き合うように立ち止まったとき、腰パン履きにズボンを下げた右側の男が不器用に膝を曲げて体を揺すりながら、軽い調子のまま脅し文句(と本人は思っているのだろう)を口にした。
「いやー、ニイチャン、ええ体してんねんなー」
こんな時にはおきまりの関西弁を使おうといているようだ。関西弁には相手を脅かすだけの語感があると思っているからなのだろうか。でも、こんなしゃべりじゃ、かえって逆効果でしかない。慣れてないことがすぐにわかってしまう。もう、どうしようもないくらいのむちゃくちゃな関西弁だ。

「あらー!あんたら、大阪の人なん?」
笑ってしまいそうなのを懸命にこらえながら、野田賢治が大阪弁で返した。
「ハァー?」
予想外の反応に対応しきれない2人は顔を見合わせている。
「関西弁、懐かしいやん! わい、吹田の生まれやねんけど、あんたは?」
早口でまくし立ててやった。
「なんじゃ、やねん……おめえは……」
さらにムチャクチャな言葉になった。

「われ、関西弁つこうとんのに、大阪の人ちゃうの?」
1歩近づき、今度はうんと低いゆっくりとしたしゃべり方をしてやった。
「札高……だよ。……わかんだろ、この服で?」
「札高? ああ、なら、緑川さん知っとるやろ? 3年の? 今は、確かボクシングやっとるゆうとったけど!」
2人の顔が瞬時に引き締まった。背中も少し伸びたように見えた。そして、小声で少し話してから右側の背の高い方が答えた。
「知り合い?」
「中学まで近所に住んでてな、よう一緒に遊んでもろたんや。高校で活躍しとるいう話、おっちゃんから聞いとったんやけど、どうなん? 今は?」

2人は顔を見合わせて、また少し小声で話した。そして今度は左側の男が言った。
「あのー、あんたも南が丘の人……なのです、か?」
「ああ、わいはノダケン言うねんけど、学校行ったら、よろしゅう言うとってや!」
終われるきっかけをもらって喜んだように、背の高い方の男が言った。
「はい、あの、わかった。必ず、あの、言います。じゃあ……」
2人は横道に向かって急いで歩き出した。その足取りは素早く。背中も曲がってはいなかった。遠ざかる2人からは「本物や、ありゃ……」という声が小さく聞こえてきた。

「なに? 今のは!」
川相智子がおびえるような目をして聞いたが、山野沙希は瞬きをしない鋭い目をしていた。
「何で、関西弁なんだ?」
中川健太郎が、背中から前に回って聞いた。
「うん、あいつらはさ、ちょっとカッコつけて悪ぶってみたかっただけでさ、中身はたいしたことないのさ。中学の頃、ああいうのはたくさんいた。」
「緑川さんって?」
「あれは、本当に中学の先輩。野球部だった」
「『ノダケン』ってこういう役割だったんだ」
山野沙希が表情を変えずに言った。
さすがに頭のいい女の子だった。「ノダケン」という言葉の持つ意味をしっかりと理解している。

「すごーい! 野田君、なんか親分みたい!」
川相智子が笑顔になった。
「野田、ケンカ、強いんだ!」
「あれはさ、挨拶みたいなもんで『オレはここにいるぞ』って言いたかったんだろきっと」
「弱い犬ほど良く吠える、ってやつ?」
山野沙希が言った。
「何であんなに関西弁しゃべれるの?」
「緑川さんは、本物の大阪の吹田生まれでさ、親父さんは完璧、関西弁。でさ、無理してああやって関西弁使うやつらはさ、本物の関西弁しゃべるやつが怖いんだよ」

「結局、野田君の方が場数を踏んでた」
「いや、住んでた世界が違うだけ」
「札幌とそんなに違う?」
「もちろん。でも、それ以上に、札幌の中でも、君たちの生活がかなり違うんだと思う」
「そう?」
「札幌にも、オレが育ったところと同じ条件のやつらはいっぱいいるはずだよ。ただ、君たちはそういう世界で育たなかった。」
「野田君とは住む世界が違った?」
「もちろん! あの2人とも住む世界は違ってる」
「オレたちと、同じ中学。芳賀と渡邉。」
「中学の時カツアゲされたってのあいつらなんだろう?」
「あいつら!」
「いくらやられた?」
「50円!」
「何回?」
「え?」
「何回せびられた?」
「1回」
「1回だけ? 50円だけ?」
「うん」

思わず笑ってしまったので、健太郎は唇をとがらせふくれてしまった。
「そうか、あいつら健太郎と仲良くしたかったんだ」
「エー」
「アイスでもおごってやれば仲間になれたのに」
「いやだ、あんなの!」
「向こうはそう思ってなかったかも」

「野田君はあの子たちと仲間になれる?」
「仲間になりたくはないけど、あんまり敵だとは思ってないかな。中学の時は、似たやつがいっぱいいた。普通のやつらだ」
「野田君も、カツアゲとかしてた?」
「そういうことじゃなくて、普通の子たちがそれぞれいろんな場面で自分の存在を確かめたがってるってことでさ、野球や勉強や陸上や、そういうこととおんなじように自分の活躍の場は誰だって欲しいから」
「悪いことだってわかってても?」
「うん、まあ、そっちの方に行っちゃう奴らもいるさ」
「なんでー? ばっかみたいじゃない、そんなの!」
当然、山野紗季にはそう感じられるだろう。

「そう、ばっかみたいなんだけどもさ、女の子たちも、悪ぶってるカワイイ男の子にキャーキャー群がってるだろ。髪型だって、服装だって、『悪ぶってる』のがウケてるじゃないか。茶髪だって、ピアスだって、眉毛やらなにやら、崩れてることが受ける条件みたいな流行……つくってるでしょ?」

「それとは違うんじゃない?」
「いやー、違わないと思うなー。なんもやることないやつがさ、楽しいこと見つけるのに女の子にもてる方法とるに決まってるっしょ。テレビではさ、歌も踊りもへたくそでも、崩れたかっこよさで売り出してる見本がいっぱいいるんだから。なんにも取り柄のないやつはさ、一番楽な方法とるに決まってるでしょ。」
川相智子は何か言いたそうだったが、山野紗季の反応の速さにはついていけない。

「そうかなー?」
「そうじゃないと思う?」
「でもなんだか、そう言ってしまったら、人間はみんな楽な方に転がるって言ってることにならない?」
「そうじゃないって思ってる?」
「そんなこと感じたことない。みんな一生懸命頑張ってる人が多いと思う。」
「頑張るのは、そうみんな頑張ってるんだよ。住んでる世界が違うっていうのはそう言うことで、君たちはそういう人たちの少ない世界で生活してきたからだと思うけど」
「それは? 悪いこと?」
山野沙希が真剣な顔をした。
「生まれたとこ、違うんだ。しょうがない」
健太郎は本当にこんな話し方しかできないのだろうか。

「良いとか悪いとかじゃなくってさ、自分の知らないいろんな世界があって、君たちの知らない世界で生きてる奴らもたくさんいるってこと言いたいだけ。」
「でも、ちゃんと話して、わかり合えれば、みんないい人なんじゃない?」
「だといいよね? でもさっき、札高のヤンキーって言ってたよね」
「なんか、馬鹿にしてるみたいな言い方」
「あのさ、今こうやって薄野の真ん中を歩いてる女子高生って本当は危険がいっぱいじゃないの?」
「でも、何か危ないことになったら守ってくれるでしょ。2人とも!」
「健太郎、守ってやれるか?」
「むり!」
「だとさ」

川相智子がようやっと言葉をつなげた。
「野田君は強いから守ってくれるでしょ?」
「そう思う? 僕自身が悪いやつかもしれないでしょ」
「そんなことないよ」
「どうしてそう言える? 君たちとは別な世界で生きてきたんだぞ」
「なんか変だよ、意地悪してわざと言ってるんでしょう」
「大丈夫よ。私は自分で自分くらい守れる」
「そうかな。いくら山野沙希が頭が良くて根性の女でも、自分だけじゃどうにもならないことなんかいっぱいある」

「どんなこと?」
「例えば、信じていた人に裏切られたら?」
「野田君が裏切る?」
「信用できる人間かどうかも怪しい」
「そうなの?」
「それは、……自分で判断するしかないんじゃないか。」

「あの2人さ、緑川さんって人にさっきのこと言うのかな?」
川相智子は話題をかえたがっている。野田賢治と山野沙希の会話が自分を寄せ付けないものになってきたのを感じていた。
「いやー、言うわけないよ」
「どうして?」
「あのふたりは、1年生だろう。3年生とまともに口聞ける立場にないから」
「えっ、話できないの?」
「同じ部活とか、知り合いじゃないのに1年生が3年生に話しかけたりしないでしょ。ましてや、カツアゲに失敗して、緑川さんの知り合いに声かけてしまったなんてわかったら、なにされるかわかんないから、かえって怖がってるんじゃないか」

「なんかされるの?」
「いや、されないだろう」
「じゃ、なんで怖がるの」
「何かされるんじゃないかという考えにおびえているから」
「勝手に恐れてる?」
「名前だとか、階級だとか、組織だとかってのはさ、その言葉が持ってるイメージが一人歩きするだろ。特に個人の名前ってのは一番重たいイメージを相手に与えるから」
「確かに、本物の姿よりも噂の方が何倍も大きくふくれあがることってあるよね」
「あ、『言霊』って、そう言うことかも」

「『ノダケン』も、そうなの?」
「うん、実態のない……言葉だけの幽霊みたいなもんだ」
「そう?」
「そうさ!」
「物言わぬ名前が一番ものを言い」
「そういうもんなの?」
「……たぶん」

それ以上誰も口を開けなくなった。三人とも頭の中で必死に言葉を探していた。このムードを一発で変えられる話題を探していた。そのための言葉はなかなか見つからない。南ヶ丘の優秀な三人でも、それは難しいことだった。

 路面電車の終点となっているススキノ交差点を越えると狸小路のアーケードが見え始めた。健太郎が再び突然立ち止まった。
「どうした?」
「うーんと、こっちじゃなかったかも」
「えー」という2人の女の子の声でそれまでの沈黙は終わりを告げた。

互いの生きてきた世界と、さっきの2人の世界、そして野田賢治が言おうとしている世界になんの違いがあるのか。そんなことを初めて考えることになった。その為に分け入ってしまった迷路のような抜け出せない暗いもやもやから、やっと明かりが見え、出口が見つかりそうな気がした。そんなことを今考えたところで、答えなんかでないことはわかっていたのだ。そして、その考えを終わらせるきっかけをどうしようかと考えていたのだった。
そこに終わりを告げるチャイムのように健太郎がしっかりとボケをかましてくれた。健太郎もなかなか頭のいいやつだった。ただ、野田賢治という自分たちの仲間の存在を頼もしく思いつつも、自分たちには想像できない経験をしてきたらしいことに幾分かの不安も抱えることになった。もっとも、それが更に興味を深めることにもなった。

道は間違っているはずもなく予定通りに食べ放題の店に到着した。野田賢治にとっては札幌に来て初めての外食となった。丹野のばあさんはどんなときでもしっかり食事を作ってくれるから、外食などする必要はなかったのだ。山野医院のBBQパーティーと旭川の全道大会での旅館以外では、初めての丹野美智子作ではない食事となった。

先に到着していた1年生の仲間たちと合流すると、なぜかその中に清嶺高校陸上部の中島瑠璃と千葉颯季とがいた。同じ1年生として学校は違っても仲の良くなった2人が参加しているらしい。
中島瑠璃は100mでそして千葉颯季は400mリレーで全道大会に出場していた。今日は2人とも私服で来ていたので、すぐには2人に気づかなかった。そして、野田賢治自身はいつもの通学と同じように学生服姿だった。

「フレンチも中華もイタリアンもあるからね、期待してて!」
そう言う言葉に誘われたのだったが、「イタリアン」という言葉からスパゲティーとピザしか連想できなかった。「食べ放題」「イタリアン」「フレンチ」という言葉は、彼にとってきらびやかな宝石に匹敵するものですらあった。今まで「食べ放題、バイキング、ブッフェ……」という食事のスタイルはテレビで見たことがあるだけだったのだ。
そのため何かしっかりした服装でいかなければいけないのだろうという緊張感から、いつもの学生服にしっかりとブラシをかけシワを伸ばした。襟のカラーも新品に取り換え、スニーカーの汚れも、使い古しの歯ブラシを使ってしっかりとこすり洗いをしてきたのだ。

千葉颯季が大きな目を見開くように言った。
「野田君、本当に学生服着てるんだ。うちの学校でも評判だよ。休みの日でも着るんだ」
本当にジャージ以外の私服はないのだ。
「なんか、変ですよね」
「目立つ、目立つ! どこにいてもすぐわかるからいいよねー!」
中島瑠璃は意外と軽い調子の話しかたをする。山野沙希は中学の時から強化合宿などで一緒だったことから中島瑠璃とは付き合いが深く、その性格もよく知っていた。

「ねえ、瑠璃、野田君ね、私服持ってないから、私たちで買ってあげない?」
「あー、いいかも」
「このあとちょっと内緒で付き合って」
「いいよ、ちょうどうちのチャピチャンの服買ってあげようと思ってお金持ってきたし」
「チャピチャン?」
「うちの犬。デブデブのダメ犬でさ、お母さんが散歩連れて行くのに服着せたいって言うんだ。でも、うちの周りなんか空き地がいっぱいなんだから放し飼いできる位なんだよー」

石狩から通って来ている中島瑠璃は100m走で一年生ながら全道大会で5位に入賞した。札幌の陸上関係者からも大きな期待を寄せられている。その点では山野沙希と中島瑠璃は特別な存在だ。そしてこの2人、その走るスピードと同じようにあっという間に決断し、いつまでも止まらずに話し続けるという点でも同じタイプの存在だった。誰もこの2人の話には口を挟めない。

中川健太郎と同じ長距離の今野康治、100mの相沢圭介と樋渡貴大の男3人がトレーにのりきらないほどの食べ物をのせて戻ってきた。健太郎以外は皆、眼鏡をかけ頭髪の裾を刈り上げた髪型、通称「坊ちゃん刈り」の小柄な奴らだった。健太郎の180センチの身長が異常に大きく感じるほどに彼らの背丈は発育途上だった。

「ノダケンは……」
ピザにかぶりつきながら話しかけてきたのは、中でも1番小さな体つきの樋渡貴大だ。
「岩内だったよな。」
「うん、そうだけど?」
「岩内ったら、やっぱ、魚ばっか食ってたの?」
「魚ばっかりってことはないけど、たぶん君たちよりは多かったかも」
「ウニとかアワビとか?」
今野康治は丸ブチの眼鏡を鼻の上にちょこんとのせ、高校一年生としては幼すぎる顔をまっすぐにこちらに向けていた。

「あのさ、クラスの奴らにも良く聞かれるんだけどさ、漁師の人たちってね、自分の収入の基になるものは自分たちで食べてしまうわけないでしょ。自給自足の生活してるわけじゃないから。商品作物を市場に卸してその収入で農家の人たちは生活するだろう。それと同じことで、自分でとった商品を自分で消費してしまったら生きていけないから。だから、海の町として魚や海産物はふんだんにあって手に入りやすいけどさ、ウニとかアワビなんかは特に高価な収入源なんだから、自分たちではそんなに食べないさ。食べるのは何か特別なことがあったりね、お客さんに振る舞ったりするときじゃないかな」  

「やっぱ、スーパーとかで買い物するわけ?」
父親が会計事務所を経営する相沢圭介が言った。
「そう。当然だろ。言っておくけど、コンビニだってイオンだってあるよ」
「肉……だろ? ごつい体、してんだから」
健太郎が表情を変えずにオレンジジュースに口をつけた。
「肉は、ジンギスカン良く食ってたな。でも、それ以上に老人食が多かったかもしれない。」
「老人食?」
「じいさんばあさんと一緒に住んでたからさ、魚、漬け物、味噌汁、煮物……ってのが多かったと思う。それから、納豆と豆腐と海苔。日本の食事って感じするだろう」

「米は?どんぶり3杯とか?」
「そんなに食うわけねえだろ! 相撲取りじゃねえって」
「じゃ、何でそんなに大きくなった? 遺伝か?」
「あー、でも親父は170ないと思う。じいさんは175くらいあるけど」
「お母さんは?」
「……たいして、大きくないと思うけど……」
「中川は何でそんなに大きくなった?」
「寝たから」
「グラタンとかさ、パスタとか、ほとんど食ったことないんだ。ピザも3回目かもしれない」

8人になった女の子たちはデザートの物色で楽しそうだ。山野沙希がこんなに女の子っぽい雰囲気なことに4人は驚いていた。
「大迫さんが言ってたけど、ノダケンの筋肉すごいんだって?」
樋渡貴大が言った。彼は短距離走者としては上半身が貧弱だった。
「腕立てとか何回できる?」
「数えたことないから」
「でも、50とかできるんだろ?」
「そりゃ、そのくらいは」
「野球部ってそんなに筋トレするもんなの? オレの中学の野球部なんてたいしたことなかったけどなあ」

相沢は大麻の中学から来ていた。大麻にも野球の強い学校があって1度対戦したことがあったことを思い出した。
「そうか? 結構力強い選手が多かったと思うけど」
「知ってるの?」
「1度対戦したことがあると思うよ」
「強かったの? おまえのところは?」
「去年は全道大会1歩手前でやられた」
「へー! レギュラーだったんだろもちろん。何やってもできるんだ!」
「そうだよなー、鉄棒できたのおまえだけだったもんな」
「運動だけはね」
「でも、南が丘に来たじゃん」
「まぐれ。ほんっと、奇跡的に倍率に救われた」
3人の顔がほころんだ。

「野田、やっぱさ、逆立ち、教えて」
健太郎がまた、別のジュースを持ってきて飲みながら言った。
「なに? 何で逆立ちなんだ?」
ピザの油で口の周りを光らせながら今野が聞いた。
「僕も、おまえも、力、ないでしょ!?」
「ノダケンに比べりゃね」
「いや、一般的にも劣るかもよオレたち」
「陸上は、走ること中心だけど、上半身、弱すぎるっしょ、みんな!」
「逆立ちよりまず、腕立てだよ健太郎は」
「腕立て、自分で、やるから、逆立ち、教えて」
「逆立ちなんか、なんで関係すんの」
「野田は、逆立ちで、グランド1周できる」
「グランド1周!!」

めったに声を張り上げたり、必要以上に興奮したりすることのない樋渡の大きな声に、プチケーキにはまっていた女の子たちと、長い時間をかけてケーキの蘊蓄を語っていた野田琢磨が振り向いた。
「グラウンドじゃなくて、野球の塁間。ダイヤモンド1周」
「逆立ちできたらなんかいいことある?」
「さあー、良くわかんないけど、体のバランスはつかみやすいかもしれない」
「腕の力いるだろう?」
「腕の力だけじゃない。体全体のバランス」
「自分の体をコントロールしやすくなるかもしれない」
「インナーマッスルとか体幹トレーニングとかってあるだろう?」
「なるほど、そういうことね!」

「なに? インナーマッスル?」
ようやく長い話に切りをつけてやって来た野田琢磨が加わった。
「上半身だけでなく、体のバランスをとる筋肉が鍛えられるってことさ」

「上半身っていえばさ、喜多満男って一年生だったよな!」
千歳体育の喜多満男は全道大会の八種競技で6位に入賞して全国大会への出場権を獲得した。全道大会に応援参加した一年生たちは、彼の力強さに驚いて帰ってきたのだ。
「健太郎と同じ中学だって?」
樋口の問いかけに、健太郎は露骨に嫌な顔を見せた。

「さっきの札高の二人、マンナンと仲間同士だった!」
「マンナン? マンナンっていうのか?」
「満男、なんて、呼ばれたことない。みんな、音読で、マンナンって、言ってた」
「えー、なんか、コンニャクの商品みたいじゃん」
「みんな嫌ってた。札高の二人。子分みたい。ついて歩いて、大っ嫌い」

ここに来る途中の札高の二人について、野田賢治が簡単に説明してやった。
「そうか、健太郎がカツアゲされたのはあの二人じゃなくって、喜多満男なんだな」
「あいつが、やらせた。後から、分かった」

喜多満男は中学の陸上部には所属しないで、小学校の頃から続ける陸上クラブで活動していたのだという。中体連には学校代表として参加していて、毎回学校の表彰式で賞状伝達をされていたのだが、日ごろの行動から不人気で拍手すらもらえないこともあったらしい。彼はそのためにかえって周りにつらく当たっていた。
力の強さでは誰もかなう者がいなかったし、建設会社の社長を務めるPTA役員の父親に遠慮してか、先生たちもあまり強く言える人はいなかったという。

野田琢磨は中学の同級生を通して千歳体育の陸上部の話を聞いていた。
「全道大会で入賞してからね、喜多満男ってやつがさ、二年生よりも上になったんだってさ。あすこの部活ってなんかね、実力主義なんだって。学年関係ないって顧問の先生が言ってるらしいよ」

千歳体育の陸上部顧問は、萬年貴文というつい最近まで400メートルで活躍していたまだ30代半ばで、赴任したばかりで事務職員をしている専任コーチだった。東京の実業団で現役生活を終えたばかりで、大学の部活動を経験していない分、上下関係も緩やかなのだという。他の部活とは正反対の指導方針らしく、学年に関係なく純粋に競技に向かうことを第一に教えているという話だった。
それでも今までの流れを変えられない3年生や2年生は、やっぱり「年上の力」を示したいらしく全道大会までは去年までと同じ雰囲気だった。それを、ひっくり返したのが喜多満男だった。

野田賢治は喜多満男がこれからも自分と大きなかかわりをもちそうなやつだと強く感じていた。

「あのさ、逆立ちも良いけどさ、みんなでさ、坂道ダッシュやらない?」
樋渡が急に張り切り始めた。
「もしかして、それって、あのボルトたちジャマイカの練習方法だったっけ」
「俺達ってこういうちょっと野蛮な練習も必要なんじゃねえか?」
「野蛮っておまえ」
「いやなんかさ、強くなりそうな気しない?あのさ、豊平川の河川敷に行けばさ、坂道何か所もあるしさ、健太郎達長距離の選手はさ、サイクリングロードで真駒内公園にまで行けるぞ!」

ここにいるみんなは旭川の全道大会で他校の力強さを目の当たりにしてきた。そして、大迫勇也や隠岐川駿の怪我によるリタイアーのつらい思いも自分たちのこととして経験してきた。今までそんなに夢中になって部活に向かっていなかったやつも何人かいる。それが、今自分のこととして陸上を考えるようになっていた。本物の強さや本当の無念さを実際に目にしたことが自分たちを変えていく。そういう意識をここにいる一年生たちは持ち始めたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?