たけしにいちゃんの部屋

雨の日の匂いはいろんな記憶を掘り起こす。
8月の夕方、太陽は低い角度で輝いているのに、頭上からは雨が降り注ぐ、変な天気だった。
アスファルトから立ち上る湿度が全身にまとわりつく。呼吸もしづらい中、地下鉄へ向かう。
どこかの民家だろうか、一瞬鼻腔をなぞった香りがたけしにいちゃんの部屋を思い出させた。
普段生きていて、頭によぎることがあまりない景色が、当時その場にいた自分の視線で鮮明に蘇るので、匂いと記憶の関係性に新鮮に驚かされた。
たけしにいちゃんは母の弟。母は三姉妹でたけしにいちゃんは一番年下の唯一の男性だった。
おばあちゃんちの庭に立つ四畳くらいのプレハブ小屋で暮らしていた。
三姉妹がとにかく活発だからか、たけしにいちゃんは普段あまり話さず、襖を開けて現れる時は「ぬぼ」っという効果音が小さく聞こえていた気がする。
幼かった僕と従兄弟はこぞってアニメ、ゲームに夢中になっていたのだが、そんな僕らにとってたけしにいちゃんの部屋は宝部屋みたいだった。
僕らは用もなく、ドアをノックして少し開け、入ってもいいか了承を得てたけしにいちゃんの部屋に入り浸っていた。
了承を得ると言っても、小さく「うん」と頷くくらいだったと思う。
たけしにいちゃんは軍手をして音ゲーをプレイしていた。
聞くと「汗で滑るから」らしい。当時の僕にはよく分からなかった。
僕らは邪魔をしないように静かに至る所にあるファミ通やアニメグッズを眺めたり、古いゲームを遊ばせてもらったりしていた。
部屋にはタンタンと落ちてきた音符に合わせて打音が響いていて、会話をすることも滅多になかった。
今思い出せばとても違和がある空間だったと思う。だけど、その違和感が妙に落ち着きをくれていたし、大人って感じだった。
そして、アニメやゲームの存在をクラスメイトたちよりも近くに感じ、その魅力に酔いしれていたきっかけはたけしにいちゃんだったと思う。
おばあちゃんちの寝室にはブラウン管のテレビとたくさんのゲームが雑多に置いてあり、従兄弟たち大勢でプレイしまくった。2階の倉庫には山のようにファミ通があって、ピョコタンを延々と読んでいた。
そんな時間が楽しくてたまらなかった。自ずとみんなゲームばかりし始めたし、僕らは大人になったら今でも仲がいい。
冷静に考えたら三姉妹はゲームをしていなかったから、たけしにいちゃんのお古のゲームたちだったのだろう。
つまり、あの頃の楽しい記憶と今まで続いている従兄弟たちの良好な関係は、実はあの無口なたけしにいちゃんが作ってくれたといえる。
父が亡くなったとき、久しぶりにたけしにいちゃんに会った。
もうあまり会う機会もないかと思えば、同年に祖父が亡くなった。
相変わらず「ぬぼ」という効果音とともに僕らの前に現れたが、相変わらず無口だった。
昔から坊主だから歳をとっているように見えなかった。
と思ったが違う。
僕たちはいつもたけしにいちゃんが音ゲーをプレイする背中ばかり見ていたのだった。
たけしにいちゃんが長男として病院の先生らと話している背中は少しだけ悲しそうに丸まっていて、年老いて見えた。その姿がどうしても悲しかった。
僕は祖父の死を受け止めて泣き止んだ後に、また少しだけ泣いた。

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