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僕は挫折と成功を繰り返した

こんにちはだいげんです。
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基本的な能力の低い自分は勝ったり負けたりを何度も何度も繰り返してきている。
YouTubeでもず〜〜〜っと負け続けていて、何度も心が折れそうになった。

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他人のセオリーを自分の基準にしない

中学二年生の進路相談で担任の先生から「このレベルの高校はお前には厳しい」と言われた時に、「まじで?ちょっと受かって先生びっくりさせてやろ〜w」と決めた時からセオリーに背いている。
先生はセオリー通りにその時の僕の成績をみて助言してくれたと今ではよくわかる。

高校はギリギリで受かった。
英語は満点だったけど、他の教科の点数が悪すぎて総合的な順位は380/400ぐらいだった。
お前が受かると思わなかったと友達から言われまくった。

進学した高校は地域ではそこそこ有名な進学校だった。

そこでサッカー部に入って、生涯の友達ができた話しはまた別の機会にするとして・・・。

友達が明治大学や北海道大学を目指す中、僕は私立の6流大学に進学した。
大学ってどこに行っても人生に影響なくね?って思っていた。

be動詞がわかれば100点を取れる大学で勉強しているのかアルバイトをしているのかわからない生活に明け暮れた3年生の終わりにオーストラリアへワーキングホリデーにいくことに決めた。
周囲は就職活動の時期で、友達からは「バカなの?就職に響いたらどうすんの??」とボロクソに言われた。

確かに!とも思ったけど大学を休んだくらいで就職に影響するような会社なら行かなくても良いと思ってその年の9月にオーストラリアへ単身旅立った。
母子家庭だった自分は留学資金を朝から晩まで毎日働いて6ヶ月かけて貯めた。

オーストラリアへ行ってから困ったことはやっぱり言語だった。

英語を"喋った経験"がないからどう喋って良いかわからない。
英語は好きだったので単語は知っていたけど言葉になって出てこない。

お金も心配だったので、すぐに日本人経営の日本食レストランで働き始めた。
そこで使う言語の9割は日本語。

すぐに日本にいた時の生活とあんま変わらないなと気づいて、地元の飲食店を探すことにした。

それを日本食レストランの同僚に言うと「英語も大して喋れないのに雇ってくれるところなんてないよwww自分も探してみたけどダメだったwww」と言われた。

その言葉が本当かどうか試してみたくなったし、これまでの人生で無理なことなんてあったっけ?って考えた(実際には高校の部活でレギュラーになることを目標にしていたけど、ベンチにすら入れなかった経験あり)

"まぁやってみるか"と手当たり次第地元のレストランに「雇って〜」と突撃して見た。
案の定「は?英語は?接客は?」みたいなことを言われた。
そりゃそうだなと思って何度も何度も飛び込み営業をした。
50件ぐらいのレストランをまわった頃、イタリアンレストランの「ジョージズ」というお店のオーナーが、「お前!今日から働けよwww皿ぐらい運べんだろ!?w」と言ってくれた。

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ほらなと思った。
無理なことなんてあったけ?
部活動でベンチにすら入れなかったことなんて忘れてそんな気持ちになった。
ジョージズには3ヶ月お世話になって、バーテンダーを任せられるようになった頃、次の挑戦をしたくなって辞めさせてもらった。
もしまだお店があるならあの時のお礼をしに行きたいと思っている。

ゴールドコーストで始まった海外ライフはメルボルン、ミルドゥラと移動して3ヶ月ほど経ったところで祖母のガンが発覚して終了した。

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オーストラリアから帰国後、祖母の手術も成功して引きこもり期間を経て就職活動をした。

就活はほぼ全勝だった

就職は6流大学から誰1人として就職したことのなかった製薬会社にターゲットを絞った。
理由は「給料が良いから」。
大学の就職課の人たちも焦っていた。
「前例がない」と・・・。
前例がないから自身の通う大学からのサポートはなく、他の大学の就活セミナーに潜り込んでノウハウを学んだ。
大学外のセミナーにも参加して自分なりに就活に対するノウハウを学んでいった。

多分、サッカーでベンチに入るよりは難易度が低いと思って製薬会社30件にエントリーした。

オーストラリアでの経験は隅から隅まで活きた
見知らぬ地に1人でいくメンタル、英語を喋る機会を得るために50件飛び込み営業にいけるガッツ、次の場所に挑戦する探究心。
恐らくもともとそういう素質はあった。
けど、具体的な形になったエピソードを実体験として話せたのが強みになった。

エントリーシート(書類審査)は全て通過した。
周りが次々と落としている中、本当に1つも落とさなかった。
一次面接も90%通った。
二次面接も80%通った。
そうしてほとんどの会社で最終面接まで行った。
面接中にダジャレを言った会社もあった。
鷲のマークの製薬会社で「先生(お医者さん)のハートを鷲掴みにします!」と言ったのは社内で話題になったらしい。
もちろん面接は通った。

就職活動は楽しかった。
自分のセオリーに反する生き方は社会に受け入れられた気がした。

結局複数の会社に内定を貰った。

↓就職直前に就活で出会った子との報告会

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大学の就職課からは「製薬会社にこんなに内定をもらうなんて前代未聞だ、選ぶなら(内定を貰ってる中の)国内の最大手にいった方が良い」と言われた。

国内の会社は止めて、外資の(内定を貰ってる中の)最大手に決めた。
理由は国内の市場よりも海外の方が大きいからだ。

母親は無事に就職できたことが嬉しくて泣いた。

ほとんど北海道を出たことがない昔気質な母親はオーストラリアに行った僕が心配で心配で毎日神経をすり減らしていたらしい(妹に聞いた)。

初任給では母親と祖母に大きいテレビを買った。
ボーナスでは母親に洗濯機やパソコンを買った。

↓じいちゃんと妹

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挫折を繰り返した会社員時代

製薬会社の営業マンになるにはMR認定試験という試験に合格しなくてはいけなかったが、毎週のようにある定期テストで会社の同期70人の中ではいつもワースト3に入っていた。

同期からは「そんなに要領が悪くてはMRとしてやっていけないやん?ww」言われた。
大阪の人だったので大阪が嫌いになった。

「お前なまってんで??ww」と思った。

これまでの人生でやってやれなかったことはなかった。
サッカーでベンチに入れなかったことを少し思い出した。

MR認定試験は余裕を持って受かった。
自分よりも成績がよかった3人が落ちた。

↓落ちこぼれ会社員のスタート

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そうして会社員をやっていると北海道大学病院の担当者をやってくれと言われた。
MRになって2年目の6月ぐらいだったのを覚えてる。

2年目で旧帝国大学の担当者はこれまでの会社の歴史の中で最速とのことだった。
大学担当者、その中でも旧帝国大学の担当者は全MRの憧れだった。
もちろん同期の中で最も早い大学担当者だった。

周りからは反対意見もあったと聞いた。
反対意見を吹き飛ばしたくて6時から24時まで働いた。
春には新しく配属となった先生と話すのが楽しかったし、夏は夜風が気持ちよくて、秋になると先生の将来の夢の話を聞いた。
冬はまだ除雪されていない雪が膝下まで積もって寒くてしんどかったw
ずっと働いていたけど、不思議とあまり苦じゃなかった。
日に日に結果が目に見えて上がっていったし、先生に必要とされている自分になれていると感じられたからだ。

この時期に自分の未熟さのせいで出入り禁止になった病院もあったし、あいつはよこすなと上司に連絡が入ったこともあった。
アポイントを忘れてすっぽかしたこともあったし、メールの文面が失礼だと怒られたこともあった。
その都度へこんだ。

そうして3年経って、担当していた新薬の売り上げで日本一になった。

1年間を通してこの売り上げを維持できれば社内でNo.1の営業マンになれることがわかっていた。
取引先のお客さん(お医者さんと薬剤師さん)には前の年から「来年はNo.1の営業マンになりたい。協力してほしい」と根回ししていたし、みんな応援してくれていた。

売り上げがよくなるとなぜか転勤させたがるのが会社(マジでこれ何で?)。

1年の1/3が経った4月に志半ばで大阪に転勤になった(国外の会社なので期初は1月)。

そうして転勤をしぶしぶ受け入れて、2年ぐらい紆余曲折あって大阪大学病院の担当になって、この生活があと30年続くのかと思ったら途端につまらなくなってすっぱり仕事をやめることにした。

ちなみに大阪では上司にいびられたり、文化の違いで馴染めなかったり売り上げが全然上向かなくて大変な思いをした。
やっぱり大阪嫌いだなと思った。

会社を辞めることにした時には妻も息子もいたし、お腹の中には赤ちゃんがいた。

MRって高給取りなんだよね。
辞める前の2年間ぐらいは年収は800万ぐらいあった。
家賃補助や福利厚生もめちゃくちゃ手厚かった。

でももう無理だった。
何より仕事に飽きていた。

明日も明後日も来月も来年も3年後20年後も同じような仕事をしているのが目に見えた。
会社の都合でどこかに転勤になるのも嫌だった。
自分の人生は自分で決めたいなと強く思ったし、いやいや仕事をしている背中を息子に見せるのも違うと思った。

丸々9年間務めた会社を辞めた。

そうして全く畑違いな動画を作る道に進んだ。
YouTuberにもなった。
会社員時代の知り合いたちはびっくりしたと思う。

高校時代の部活仲間だけは信じてくれた。
「だいげんは絶対に成功する」
ずっと言い続けてくれた。
ベンチにすら入れなかったのを知っているくせに。

まだ僕は成功していない。
成功するかはわからない。

でもやるしかない。

自分の人生を決めるのは自分だ。
人生を切り開くのは自分だ。

挑戦を躊躇している人へ

躊躇しようが途中でやめようが全然良いと思う。

僕も会社を辞める時にめちゃくちゃ躊躇したし、もっと遡ると会社員にならずにバンドマンとして生きていくことは断念している(大学時代はバンドマン)。

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自分の中のやるかやらないかの判断は「死ぬ間際に後悔をしない生き方を選ぶ」「息子にかっこいい背中を見せる」と言う基準で決めるようにしている。

何かを始めることに才能とか能力とかは多分あまり関係ない。
目標を達成するんだという強い気持ちが結果を左右すると信じている。

今日を全力で生きて明日に繋げる。
毎日をその繰り返しで自分を高めて生きたいなと思う。

僕はいつも負けてきた。
その度に勝ちたいと願い、勝つためにどうしたら良いか考えた。

YouTubeでも勝ちたいよ。
毎日そう思ってる。


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