小説の詳しい描写がメンドクサイ問題について僕も考えてみた

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僕もあまり小説を読まないのですが(年に三冊くらい?)、ランダムに三つほど思ったことを書きます。

上の記事で、描写がめんどくさいと言われる原因として

主人公の探偵、沢崎が自分の事務所にはいるときの描写です。これを読んでいて思ったのは、僕は今、街を歩いていても街の風景を見ていないし、喫茶店の窓際にすわっても、街を歩く人の姿を観察したりしないということです。

ということで、普段関心を払っていない部分の描写が続くと追っていられない、としています。

直接めんどくさい問題には関係しないのですが、僕は描写は視点人物の感じている物と解釈して読んでいます。なので、上の記事で例として引用されている箇所を読んで思うのは、「この登場人物は結構細かく物事を認識しているんだな、そういう職業的必然(この人は探偵)があるんだろう」ということでした。描写の細かさ自体をキャラクター表現の一部として捉えています。

昨今は共感がないと何事も人を惹きつけられないものですが、小説の登場人物として読者の共感を得る方法の一つとして、読者に近い人物を置くことがあるでしょう。そうした登場人物は、

僕は今、街を歩いていても街の風景を見ていないし、喫茶店の窓際にすわっても、街を歩く人の姿を観察したりしないということです。

の通り、地の文がすごくあっさりした物になると思います。そして、漏れている(?)風景とかについては読者が自分で埋めることになっていきます。もしかしたら、漏れている部分を特に埋めないまま小説を読めるように今の人はなっているのかも知れません(僕はいい年なんで、読み方が古いという自覚はあります)。

(余談。だいたい、小説のような物がもう、立場の近い人から立場の近い人へ送られる物の気がしていて、その点で同質性に期待した描写をするのは携帯小説の頃から真っ当なやり方でしたよね)

古い話でうろ覚えですが、確か石川忠司『現代小説のレッスン』では「風景描写の間先へ進まないから風景描写が小説を壊している」みたいなことを言っていた気がします(が、こう書くとすごく乱暴なので、僕が間違えて憶えている気がしますね……)。今では小説を読む時に「先に進む」ということをそれほど重視していませんが、まあでも多くの場合は小説にストーリー(出来事の連続)を求めているようですし、その場合はこれは確かに問題ですね(今、純文学とエンターテインメントを無理やり混ぜました。騙されないでくださいね)。

これ書いた時には確か「風景描写が小説を壊す」というのを避けるため、なるべく風景と行動の描写をまとめようと腐心していた……ような記憶があります、十年くらい前だけど)

ということで、まあ結論はないのですが、無理やりそれっぽく書くと、描写があっさりしているのは流れだし、これからもっとそうなっていくだろう、敢えて細かくて進行が遅い場合には、それなりの理由(それ自体がキャラクター表現、とか)が必要だろうということでした。

この「地の文は視点人物の感じていること」「だから現代人にとっては細かくない描写が自然に感じられる」ということを逆手にとってというか、うまく処理したのが宮下奈都の『羊と鋼の森』です(今年、映画にもなるようですね: https://www.toho.co.jp/movie/lineup/hitsuji-movie.html )。

ピアノの調律をする調律師の話で、だから音の描写が必要で、必要どころじゃなくて魅力的でないといけない。これを、主人公をとても感受性の豊かで、でも音楽のことはよく知らないという人にすることで(主人公の自称で進んでいく小説です)うまくやっています。

主人公の感性で描かれた風景や音の描写は読んで心地いいものになっていて、一文、一段落の長さでいうと元記事で引用されていた『そして夜は甦る』くらいの長さ・密度のものもあるのですが、もっとずっとその感じに浸っていたい、という気持ちにさせられます。こんな感じ。

 柳さんが笑いかけると、立ったままだった彼女はピアノの前の椅子を引いてすわった。そうしてゆっくりと鍵盤の上に指を滑らせた。右手と左手が同時に動く、短い曲だった。たぶん、指を動かすための練習曲だ。美しかった。粒が揃っていて、端正で、つやつやしていた。耳の鳥肌は消えない。あっというまに弾き終えてしまったのが残念だった。

これは、めんどくさい問題への一つの回答だなと思います。日常とはちょっと違う世界を魅力的に味わうことができる小説、ということで。ストーリーもありますが、ストーリーじゃない部分が魅力的でおすすめの小説(そういう意味で映画化は中々の挑戦の気がしています。楽しみ)。

ところでこれまた古い本で保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』というのがあります。この中で保坂は、「風景描写こそが文体である」と言ってこれをとても重視しています。試しに彼の『プレーンソング』を読んでいるのですが、確かに描写が細かくされていて、描写めんどくさい警察にはすぐに摘発されそうな感じなんですが、最近はそれほど小説にストーリーを求めていないのもあって、結構いい感じで浸れています。ちらっと読んだ同じ作者の『カンヴァセイション・ピース』はその点がもっとよさそうで、これも早く読みたい。

まだまだ小説観を変えられそうで、描写一つ取っても考えるのは楽しいですね。



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