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芸術と商業のあいだに

六本木の国立新美術館で開催されていた「佐藤可士和展」を観た。

館内では五美大の卒業制作展もやっており、それを少し見てから可士和さんの展示を見たのだが、芸術と商業の間にある深い川を見たような気持ちになった。

まずは五美大卒制展のお話。
卒業制作って、何を作ってもよい。4年間生きて考えてきたこと、感じたこと、なんでも、どんな技法に載せて表現してもいい。ハチクロでもみなさん苦労していたけど、これってものすごく難しいだろうなと思う。自分だったら1年生のうちから憂鬱になって、飲んでなどいられなかっただろう。あんなに飲まなくても良かった気はするが。
私は芸術の、特に美術方面の技術はよく(まったく)分からない。でも、その人が表現しようとしたものを、作品の横に添えてあるコメントで読むと、アウトプットの見た目は違うがほとんどの作品が「自分(自分自身、自分が好きなもの、人、物語、子供の頃の夢などなど)」から成っている。そこから少しジャンプして「自分の興味がある場所、歴史を深堀してみた」「タブーに挑んでみた」などもあったけど、ほとんどは誤解を恐れずに言えば「日記」だった。そして、実際につきあうとひとり一人がこんなにもちがっていて面白くて不可解な「人」というものが、作品で見ると「うん、あるよねこういうこと」という感覚になってしまうのかと思った。見ていて少し苦しいなと思いながら館内を歩いた。でも、それでも、こういう人たちのなから出てくるのだ、全然芸術が分からない私みたいなものも見たら泣いてしまうようなものをいずれつくる人が。それを発掘する側の力もすごいんだなと思う。

ひとつ「見た人に良いことがあるように縁起が良い数字をつかって作ってみました(どうぞご覧ください)」というコンセプトの作品が心に残った。自分を一歩横に置いてお客さんに話しかける「商業の姿勢」にほっとしたのだと思う。そうなのだ、「バズりを意識する」をつくり手本人がやると、芸術から一歩離れ、商業に近づく。それなのにパトロンがいないいまの時代は、バズらなくては食べていけなかったりもする。芸術家が生きていくのは誠に大変な時代(国)。芸術を守る、名前の出ない人たちに、芸術家の方々同様強く尊敬を感じた。

卒展(鑑賞)で苦しんだ分、佐藤可士和展の会場に入ったとき安心した。広告は、相手から与えられたお題があり制約がある。だから作れる。芸術と比べると、えらくカンタンだよねとひっそりと思う。そして、広告はひとりでつくるものではない。「ウチの社員のデザインできる子がつくったゆるキャラ表紙にしてくれる?かわいいでしょ」などと言ってくる(やめてこわい)クライアントも、つくるのを助けてくれている一人です。おなじ「つくる」でも芸術と商業は全然違うものだ。

しかし、芸術家も優秀なクリエイターも「深くまで思考を潜らせる、それだけ」ということにおいては似ているものがある、と可士和さんの仕事を見て思った。三井物産のブランディングについてのコーナーは、圧巻だった。コピーライターとかデザイナーとかいう垣根はどうでもいいから確実にコミュニケーションをしていくという可士和さんの心意気が見える展示で感動してしまった。そして、可士和さんが手がけたロゴが展示してあるコーナーではあらゆるロゴを見て「これはこういうオリエンでこういう流れでこういう苦労があった仕事なんだよね」とオートマチックに脳内に浮かび上がってくるほど、佐藤可士和さんの仕事がどういう経緯でできているのかを普段目にしている、つまりみんなが気になっているのだな、と思った。

これ読みたい。


館内のカフェで休憩をした。ショーケースに並んでいるケーキをみて「これはパサパサの予感!」とちゃんと思ったはずなのに、メニューの写真をみたら食べたくなってしまい、夫の「おれも食べるから」というよく分からない説得でオーダーしてしまった。コーヒーはおいしかった。

(パッサパサやで)

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《おまけ・本日のいじわる》
卒展を見ているとき、後ろにいたカップルの男の子が女の子に「この作品つくった人、すげえいいやつだよ、おれ分かっちゃった。なんでかっていうとこの作品はさ…」と解説していて女の子が「え〜すごい、そうかも!」と言っていた。その作者の解説を読んでいた私が小さな声で「ぜんぜん違うのであった…」とつぶやきながらさささと移動したら夫が「いやーほんとにいじわるだわ、この人」と言いながらさささとついて来た。ひひひひひ。


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