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永遠の憧れ サガンの世界

「これを18歳の女の子が書いたなんて…」

初めて「悲しみよ こんにちは」を読んだ時、とても衝撃を受けた。20代前半だっただろうか。

小説の良し悪しは始めの数行で決まる、と誰かが書いていたが、数々読んだ小説の中でも特に印象深い冒頭だ。

ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。

「悲しみよこんにちは」 サガン(朝吹登美子訳)

「悲しみ」をこんなふうに表現するんだ。

その頃、私は女流作家に没頭していた。山田詠美さんからはじまり、詠美さんが憧れと書いていた田辺聖子さんや森遥子さんなどを読み漁っていた。みなさん、サガンのことはエッセイなどで書かれていたように思う。「悲しみよこんにちは」という本があることは知っていたが、読んでみようと思ったのは、それがきっかけだった。彼女らもそれぞれ独自の表現、文体をお持ちだが、そこに少なからず影響を与えた1人なんだなと実感した。

それまでにも名著と言われる翻訳本は何冊か読んでいたのだが、どうしても文体に違和感を覚えて入り込めない作品が多かった。翻訳本であるサガンが好きになったのは、朝吹登美子さんの訳によるところも大きい。

ストーリー、感情描写が素晴らしいのはもちろんだが、文体の美しさにも心が惹かれた。朝吹登美子さんの訳はとても詩的で、行ったことのない、今では体験もできない1950年代のパリの世界観をありありと感じさせる。ブルジョワジーの空気があちこちに香る。そのノーブルで礼儀正しい時代に憧れたのは、朝吹登美子さんの言葉の選び方が洗練されていたからだろう。私には懐古主義的なところがあるので、なおさら惹かれたのだと思う。

同時代を生きた、朝吹登美子さんのエッセイを読むとその頃のパリが想像できる。美しい写真とともに朝吹さんのパリの思い出が綴られている。同じ時代に同じ世界を生きていたからこそ、表現できるものがあったのだと思う。
(余談だが、別の方が訳された「悲しみよこんにちは」も読んだけれど、読みやすくはあるが、私の憧れたパリではなく、現代的な雰囲気になってしまっていた)

サガンの本を読むうちに、サガンのことも知りたくなった。サガンのイメージと言えば、車での大事故、お酒、賭博などだったが、エッセイを読むうちにサガン自身にも惹かれていった。(小説が好きだが、作家には惹かれないということはほぼないが)

サガンの書く小説のように、彼女自身、生や死にこだわらず『現在』にこだわり、自由を愛した人。自分の死は怖がらないが、好きな人が死ぬことを怖がり、人が好きでなんでも楽しんだ人。孤独は怖くないと言いながらも、小説のテーマは孤独だった。サルトルやミッテラン大統領とも友人であったという人柄など、知れば知るほど憧れの存在になった。

他人のどういうところが好きかと聞かれた答えがサガンらしいと思う。

魅力と知性の混ざり合ったもの、善良さ。個人的にいちばん重要だと思うのは優しさです。本当の知性を試す基準になるのです。

サガンのように孤独と仲良く、なんでも楽しみ人を好きでいられるような大人になりたい。

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