街は人いきれの雨で(6) ~アコギとベース~

 久しぶりにお昼の時間帯に明莉さんのお店に来た気がする。思えば、初めてこのお店に来たのもこの時間帯だったかもしれない。
「信じられます⁉全く弾けないんですよ。全く。ホントにまっっっっったく‼」
「えぇ!それでよく例大祭のステージを引き受けたわね。イベンター来るって事も柑菜から話したんでしょう?」
 晴れた日には窓側の席から店内に日が差し、より一層店内が明るく見える。今日はあいにくの雨だが、窓に打ち付ける雨音が心地よい。これはこれで趣があるというものだ。
 朝のメニューにはないレモンスカッシュを頼んだ。明莉さんの作る甘いクロワッサンと酸っぱいレモンの味。合わないのではないかと心配したが、そんなことはなかった。
「最初に握手した時、ハジメの左手の爪がやたら長かったんです。何年もベースを演奏してきたんならまだ分かるんですけど、初心者以下のレベルであの爪だと、上の弦や下の弦に爪が当たってまともに弾けないと思うんですよね。多分、練習する気すらなかったんだと思います。あれは稀代のクズですよ。」
「能力がない上に向上心もないとなると、救いようがないわね。夏目漱石の小説なら即自殺よ。」
 このお店のレモンスカッシュは寒い冬の日に飲むホットレモネードのように甘い。後味でほんの少しだけ酸味を感じられる。きっと、自分の作るパンの味と合うように、何度も味のバランスを考えたのだろう。
「さすがに全く弾けないってことはないだろうと思って、Smoke on the wataer を弾かせたんですよ。禄に弾けない‼四歳児が弾いてる動画だってネットにいくらでもあるのに。弾けない‼それに、3弦から4弦に移るときに第6フレットより後ろを弾いたんですよ。それ意味ないから!その音3弦で弾けるから!普段から演奏してたら絶対しないですよね。」
「そこまで何も出来ないのに、毎日ベース背負ってて恥ずかしくないのかしらね。むしろ怖いわ。まだ、普通の虚言癖の方が可愛げがあるわね。」
 ・・・。
「そもそも、私とスタジオで練習する話してから三日もあったのに・・・」
「謝るから!謝るから、俺の居ないところでやってくれないかな!」
 懸命に聞こえないふりをしていたが、遂に口を挟んでしまった。
 明莉さんと柑菜がこっちへゆっくりと顔を向ける。
「「・・・・・・はっ!」」
「いや、居たよ!ずっと居たよ!」
「そもそも、ハジメ君はなんで居るの?」
「明莉さんも急にひどくないですか?柑菜に作戦会議だとか言って連れてこられたら、怒濤の愚痴が始まって入っていけなかったんですよ!」
「まーた『連れてこられた』とか言ってる。そういう考え方してたら、一生そのままだよ。あ、明莉さん、ジンジャーエールもうひとつお願いします。ハジメのお金で。」
「はいー、ご注文承りました。」
 完全に二対一の構図だ。
「払うから。払うから、話を進めてくれ。」

「曲を決めようと思います。」
「確かに、大事だ。」
そういえばそうだった。まだ何をやるのかを決めていないのに、練習のしようもない。
そうだ、 俺は独学というものが絶望的に出来ない人間だった。目標もなくただひたすらに努力出来るほど、志の高い人間ではなかった。何か大会やイベントといった具体的な目標が欲しかった。
 それに、音楽について知らないことが多すぎた。コードとは何なのか。アクセサリーは何が必要なのか。一人で演奏の練習をしようにも、TAB譜だけでは運指までは分からない。多分本当はもっと考えないと行けないことが沢山ある。でも、何が必要なのかすら分からない。教えてくれる誰かが欲しかった。
 下手なら下手なりに、それが許されるような緩い集まりに入って練習すればよかったのだ。しかし、プライドがそれを許さなかった。そのプライドは一体何を守っているのだろうか。自分は何も持っていないのに。持っていないということを認めてしまうと、何かから後ろに下がってしまうような気がしていた。
 『目標』。その言葉を頭の中で唱えると、久々に気持ちが上向いたような気がした。広すぎる牢獄から解放され、四畳半の自由を手に入れられたような気がした。
「いま、『まだ何をやるのかを決めていないのに、練習のしようもない』とか思ったでしょ?あのレベルでいきなり曲を練習できるとか思わない方がいいからね。」
「いや、思ってないけど。そうやって、決めつけないでくれるか。」
 俺の奮起を返せ。

「うーん。」
 チラシを片手に柑菜が唸る。三時になってお客さんが増えてきたため、俺と柑菜はお店の端にあるテーブルを慎ましく使っていた。
「八月だし、思いっきり夏っぽい曲がいいよね。」
「盛り上がれるようなアップテンポな曲の方がいいだろうな。」
 本当は明莉さんにも意見を聞きたかったが、今は接客に追われていてそれどころではなさそうだ。
「あと、お客さんは年代バラバラだろうから、誰でも知ってる超有名がいいかな。例えば・・・」
「「夏祭り?」」
 初めて柑菜と意見がピタリと一致した。今更説明の必要はないと思うが、『夏祭り』は一九九〇年に破矢ジンタ氏によって制作され、発表から三〇年近く経っても未だに愛される夏の名曲だ。学生バンドは誰しも一度はコピーないし練習をしたことがあるんじゃないだろうか。
「ホワイトベリーのね。」
「ジッタリンジンの!」
 俺は原曲至上主義だ。そこは譲れない。だが、今コピーしている人たちでも、半分くらいはカバーをしたホワイトベリーの曲だと思っているという悲しい現状がある。コピーアレンジも原曲準拠のものは、あまり見た事がない。
「え、・・・ジェットにんじん?」
「それ本当に怒られるからやめろよ。」
「大丈夫。もう和解してるから。」
 詳しく知りたい人は "ジッタリンジン GO!GO!7188 事件" で検索してくれ。
「てかさ、ジェットにんじんネタが通じる人、わたし初めて見た!肝心な事は知らなくても、そういう無駄な事は沢山知ってる人っているよねー。」
「うるさい。で、ジッタリンジン版でいいのか?」
「うーん。わたし、オリジナルのアレンジを知らないけど、いいよ。」
「え、そっちの方が詳しそうだから、俺の考えなんか入れない方がいいんじゃないか?」
「別に考えなしに言ってる訳じゃないんでしょ?じゃあ、わたしは考えに乗っかるだけ。」
 考えがないということは、確かにない。柑菜はアコースティックギターで、俺はベースギター。そんな歪な組み合わせで出来る楽曲なんて非常に限られている。
 だが、こういうことを言われると、ますます柑菜という人間が分からなくなる。引っ張っていきたいのか、それとも引っ張ってほしいのか。今はその両方に見える。なんて我が儘なんだ。

「それじゃあ、練習計画を立てないとね。」
 話が現実に戻ってきた。
「いいよ、独学しておくから。」
「その結果がご覧の有様なんでしょうが!」
「お、おおう。」
 反論の余地がなかった。
「バイト終わりの夜九時頃に連絡するから、ちゃんと携帯見ておいてね。あと、それまでに食料を備蓄しておくように。」
 俺は軟禁でもされるのか。
「あと、次に会うときには中間報告をしてもらおうかな?」
「何と何の”中間”なんだよ、それ。」
「中間報告は私が空いている日だから、金曜日の・・・七日。お、七夕の日だね。あんまりにも成長がないと天帝柑菜が激怒して、彦星ハジメを天の川に放流するからね。」
 しれっと自分を織姫よりも上の立場に置いている。
「七夕って・・・四日しかないじゃねえか。そんな急に成長なんか無理だろ。」
 ぴん。柑菜がこちらに指を向ける。
「もう何をするにも遅すぎる。自覚はあるんだよね?」
 その言葉は俺にずしりとのし掛かる。そうだ、始まりからして遅すぎるのに、まともな速度で歩みを進めていたら、何かを成し遂げる前に死んでしまう。
「だったら少しは取り返せるように頑張らなきゃ!」
 ずっと頑張り続けてきたであろう人に言われると、否が応でも説得力があった。


 帰りのスーパーで買い込んできた食材をひたすら切る。豚バラ肉八〇〇グラム、にんじん二本、じゃがいも四つ。玉ねぎ四個をみじん切りにするのは毎回ながら骨が折れる。
 料理をするのは昔から好きだった。料理はシンプルだ。切って、炒めて、混ぜて、煮込んで。間違いなく前に進んでいると実感が出来る、数少ない瞬間だ。俺の舌がとても大雑把で美味しいの幅が広いことも大きいのかもしれない。多少焦がしても、ちょっとくらい調味料の分量を間違えても、最後には美味しく食べる事が出来た。テスト勉強をしているときは、どれだけ教科書を暗記していても、まだなにか足りないような気がしていた。レポートを書き終えても、これで本当にいいのか何度も何度も書き直した。曲作りなんてその最たる物だ。どれだけ時間と労力をかけても、前に進んでいる気がちっともしなかった。
 玉ねぎが飴色になるまでひたすら炒め続ける。こういう時でも無心になれずに余計な事を考えてしまうのは、よくない癖だ。自分を追い込むため、カレーと一緒にマカロニサラダを作る事にしよう。考えが入り込む余地がなくなるように・・・。

大鍋いっぱいのカレーとサラダが出来上がって一休みしている頃、柑菜から連絡が来た。携帯の画面に通知が出ている。

[KANNA] かんなちゃんクイズの時間です

 文字上での柑菜は、普段の変な感じがさらに濃縮された感じだ。俺も最近は扱いに慣れてきた。

[ハジメ] はい
[KANNA] かんなちゃんは例大祭のステージに向けて楽器の練習をしています
今日は7/3の午後9時です
例大祭のステージは8/20の午後6時です
さて、かんなちゃんに残された時間はあと何時間あるでしょうか?
[ハジメ] わからん
[KANNA] 目の前にある
文明の
利器を
使って
調べろ!!!れれ!

仕方がないので携帯を使って計算してみる。
えーと、3+27x24+19x24+18だから・・・。

[ハジメ] 1125時間?
[KANNA] 正解!!
景品としてさっきステージで拾ったエクストラ・ライトのピックをあげよう
[ハジメ] いらん!
それベースギターで使うと折れるやつだろ
[KANNA] あなたは謙虚な心の持ち主ですね
ご褒美にこのマイクスタンド用ピックホルダーをあげましょうれ
[ハジメ] それ使わないとピック投げできない奴はフロントマン目指すのやめちまえ
[KANNA] 1125時間って意外と沢山ある気がしない?
これは努力次第ではいけそうな気がしてくるでしょ?
と言う訳でこれから練習のスケジュールを立てましょう
素敵でしょ?

 千時間。数が巨大すぎてあまりよく分からないが、相当な時間があるような気がしてくる。
 ん?あれ、ちょっと待てよ・・・?

[ハジメ] いやいやいや!
騙されそうになったけどその時間フルに使える訳じゃないじゃねーか
[KANNA] というと?
[ハジメ] 睡眠時間が考慮されてない
一日に8時間は寝るだろ
[KANNA] だめ
[ハジメ] は?
[KANNA] 勤労の義務を果たさない奴に睡眠の権利があると思うな!
なんなら食事も取るな!!
二酸化炭素排出量も普段の半分以下に抑えろ!!!
[ハジメ] 俺に人権はないのかよ!
[KANNA] せめてもの温情で5時間は寝かせてあげる
[ハジメ] 無理無理無理
人間8時間は寝ないと死ぬって

 この時、俺はある作戦を考えていた。営業の世界で使われる「ドア・イン・ザ・フェイス」と呼ばれるテクニックである。最初に本来の価格よりも上の値段を提示することで、本来の価格を安く感じさせ、相手に納得感を与えつつ定価で契約させるテクニックである。

[KANNA] だめ、5時間
[ハジメ] じゃあ6時間でいいから!
せめて6時間は寝かせてくれ!
[KANNA] だめ、5時間

 理論は万能でない事もある。
 結局、俺の睡眠時間は本番の日まで五時間になった。

[KANNA] さあ、努力をしよう。
努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。 by 王貞治
[ハジメ] 私は睡眠が大好きだ。 私の人生は、起きているときにダメになってしまう傾向がある by ヘミングウェイ
[KANNA] 都合のいい格言を探してくるな!!!れ!
[ハジメ] お前もな!
あと、さっきから所々!がれになってるのが気になるんだよ!
[KANNA] ちょっとくらい指がズレるのは仕方ないでしょ!!!れれれ
そっちと違って演奏で指を酷使して仕事してるんだかられれれれれ

 ・・・このやりとり、見たい人いる?もういいよね?読んでる人みんな『文量の割に情報量が少ない!』って感じてるよね?

 結局この後もダラダラとメッセージのやりとりは続き、ベースの練習用機材を明莉さんから借りる事(そういえば、なんで持ってるんだ?)や、最初に練習すべき曲のリストが送られてきた。
 あと、ほぼ自由時間のない練習スケジュールも。ひたすら弾かせる体育会系な練習メニューなのかと思ったら、リズムの訓練やコードの勉強など、意外と身体に配慮したプログラムになっていた。もう、睡眠時間がほぼないことは気にならなくなっていた。気にしたら負けである。