街は人いきれの雨で(2) ~弁天様~

六月二七日

三日にわたって降り続いた雨がようやく上がった朝、俺はいつもの日課で家の近所の神社に来ていた。湿った空気の中で吹く風はいつもよりも冷たい。
まだ早朝と言うこともあって、自分以外は誰もいない。シンと静まりかえった中で参道を見ると、神仏を信じない自分でさえ神妙な気持ちになる。ここから長い長い階段を上ると本殿にたどり着く。まだ見たことがないが、お正月には鳥居の外まで行列が出来るらしい。誰も居ないので背中の荷物をベンチの上に置いて行こうか迷ったが、そのまま登ることにした。
神社の設計者は、舞台の演出家と言ってもいいだろう。全ては神様という存在を信じさせるため。こんな何もない朝でさせ、そこに流れる空気は外の道路とは一線を画す。地元の人からはとても信頼を置かれているようで、以前「神仏に祈っている暇があったらメールの一本でも打つべし」といった風貌のサラリーマンが、鳥居の前で立ち止まって一礼するのを見たことがある。そんなに御利益があるのだろうか。
一番下は小さな公園になっていて、遊具が一通り揃っている。休日のお昼時には子供連れで賑わっている。そして、階段を上ると、そこは神楽殿と小さな広場がある。去年の夏祭りの時、ここで雅楽の元、巫女が踊っているのを見た気がする。
そこから更に階段を上るとようやく本殿が見える。しかし、俺の目的はこれではない。
立派な本殿を左手に折れると、末社がいくつか並んでいる。ここにあるのは、神社の土地がなくなり、住む場所を失ってしまった神様達だ。途中にある鳥居はやたらに小さく、背中の荷物が鳥居に当たりそうになる。
末社にもいくつか種類があり、中には狛犬まで揃っていて、小さな神社さながらのものから社殿がちんまりと置いてあるだけのまで様々だ。俺の目的は、その中でも一際のしょぼさを誇る「弁天社」だ。この町は自他ともに認める演芸と音楽の町というのに、芸能の神様・弁天様の扱いがぞんざい過ぎはしないだろうか。
社は妹が持っていたシルバニアファミリーの家よりも遙かに小さい。それがその辺で拾ってきたのかという歪な形の石段の上に置かれている。鳴らしもその辺で売っている紐に猫用の鈴でも付けたような粗末なもので、カラカラと乾いた音が鳴る。これで神様に音が届いているのであれば、弁天様は相当な地獄耳に違いない。
…と悪態を付いたが、ここにお参りをするのが俺の日課だ。本来のお参りではまず一礼するのだが、なんだかこれに対して礼をする必要を感じないので、いきなり鳴らしをじゃらじゃらと鳴らす。本当はその後二礼するのだが、礼をする必要性を感じないので、そのまま二拍手する。最後に一礼するのだが以下略。この「じゃらじゃらパンパン式お参り」をもうかれこれ3ヶ月、毎日している。
そしていつも願う「有名になれますように」と。

お参りを終えた帰り道、向こうからギターケースが階段を上ってくるのが見えた。遂に神様がその姿を現したのかと思ったらその後女の子の姿が見えてきた。背負っているのは一般的なアコースティックギターのハードケースなのだが、背負っている人間が小柄なせいでチェロでも背負っているのかと思った。あの子もお参りだろうか。
そのまま本殿に行くのかと思ったら、何と俺が居る末社へと続く道へと歩いてきた。話しかけようかと思ったが「おはようございます。やっと晴れましたね」「あれ、その荷物、楽器やってるんですか?」「もしかしてあなたも弁天様の噂を聞いてきたんですか?」「こんな時間にお参りだなんて、あなたもこの辺に住んでるんですか?」…思い浮かんだ話題はどれもイマイチに思えた。第一、見知らぬ男に急に話しかけたら相手はどう思うだろうか。俺ももう若くない。下手すると最後のやつは通報される危険性がある。隣人愛という概念は現代社会の個室化に伴って消滅したのだ。
と自分の中で勝手に結論付け、結局話しかけることもせずに、また長い階段を下っていった。

「あの、すみません!」
背後から声がした。本当に自分に話しかけられているのか、念のために周りを確認してみたが、周りには自分しかいない。
振り向くと少女がこちらに向かって尋ねてきた「この辺りに弁天様のお社があると聞いたんですが、どこにあるのか知りませんかー?」
この神社は末社が10以上あり、弁天社はその中でも群を抜いて小さい。確かに、最初来たときは俺も探した記憶がある。
階段を駆け上り。
「ふふふ、それを背負ってるということは、きっとあなたも弁天様にお参りだと思って。」
背中の荷物を見た少女が言う。そう、ずっとベースギターの入ったギターケースを背負っていたのだ。
「それ、楽器ですよね?」
「えぇ、まだ始めたばっかりで全然上手くないですけど。というか、あなたも楽器持ってるじゃないですか」
「私、アコースティックギターで弾き語りとかやるんです。この前、イベントで知り合った音楽関係の人からここの弁天社は願いが叶うって言われて、試しにお参りしてみようと思って。それにしても、昨日まで大雨だったのに晴れましたねー。晴れの日の誰も居ない神社って神妙な気持ちになれますね。私、この神社のすぐ近くに住んでるんですけど、全然お参りとかしたことなくて、こんなにいっぱい神様が奉られているなんて知りませんでした。」
俺が聞こうかと迷っていたことを、何も言っていないのに全部喋ってくれた。凄い。もしかしたら本当に神の化身か何かかもしれない。
「ところで、あなたも弾き語り?」
残念ながらベースギター一本では弾き語りは難しい。そもそも、弾きながら歌えるほどの腕はない。が、面倒なのでそのまま弾き語りギター人として通すことにした。
「はい、弾き語りができるように目指して練習してます。」
「おっ、頑張ってくださいね!あなたが一流になれたら、ここの神様の力は本物ってことですよね?」
「確かにそうなりますね。」
なんだか上っ面な会話が続く。主に俺のせいなのだが。素性を分からないし、きっと今後会うこともない人間に気に入られようとすることが、とても無駄なことに思えたのだ。出来ることなら人生を無駄ゼロで終えたいのだ。正解の道以外、一切の寄り道をせずに最短距離で人生のゴールまで進みたい。口にせずとも誰しもそう思っているに違いない。俺はそれを少しだけ行動に移しているだけだ。

「ここですよ。信じられないくらい小さいですが。」
そんなこんなで女の子に弁天社の場所を教えてあげた。ただそれだけなのに、やたら丁寧に頭を下げてお礼を言われた。
きっとこの人は誰からも好かれる。そんな幸せな雰囲気が全身から溢れ出していた。

嫌なことがあったわけではないのに、不思議な劣等界に苛まれながら階段を下っていた。半分くらいまで降りたところで、また後ろから声がした。
「ごめんなさい!わたし、神社のお参りのやり方知らないんです!教えてもらってもいいですかー?」
仕方がないので、また階段をかけ上る。ちなみに、俺が背負っているベースギターは普通のギターよりも遙かに重い。その重量比は約2.5倍だ。
「ありがとうございます」登り切ったところで女の子から深々と頭を下げられた。
いつもやっているじゃらじゃらパンパン式ではなくて、きちんと二礼二拍手一礼のやり方を教えてあげた。これで俺のこれまでの無礼もきっと帳消しになるに違いない。

「では、今度こそ。もう何もないですよね?」
そう言って一応確認してから、三度目の神社脱出を目指して階段を下る。
三分の二ほど降りたところで後ろから大声がした
「すいません!」パンッ
振り返ると両手を合わせてこちらに頭を下げている少女の姿があった。かなり勢いよく手を合わせたらしく、音が神社一面に響き渡っていた。既にシャトルラン終盤のように足がガクガクしていたのでこれ以上上がり運動をしたくなかったのだが、仕方がないので階段を引き返す。
「ホントにごめんなさい!私、今日携帯を家に忘れてきちゃって…あの、今って何時ですか?」
…それは、登らせなくても訊けたんじゃないか?


「この前教えてもらった、八幡宮の弁天様あるじゃないですか」
「おっ、行ってみた?小さすぎてビックリしたでしょ。私はアレで神社というもののアイデンティティーが崩壊したね」
午前7時45分、俺は町のクロワッサン屋で朝食を食べていた。お客は俺しかいない。なぜなら開店前だからだ。さすさす。
この店のオーナー兼店長兼シェフの明莉さんが喋りながらサラダ用の野菜を切っている。小気味よい音が小さな店内に響く。
「いや、僕はそこまでの衝撃はなかったですけど、確かに小さいとは思いましたが…ってそんな話じゃないんですよ。毎日通っても全然何も変わんないですけど。結局、バンドメンバーも一人も見つかってないですし」
キッチンからしていた包丁の音が止まった。何だろう、と思っていると自分の後ろに明莉さんが近づいてくる気配がした。
…パン!急に明莉さんが真後ろで手を叩いた。
「はい!今、あなたの目の前に流れ星が見えました!あなたは何をお願いする?」
え、そんなこと急に言われても…と、もごもごしていると、明莉さんが「はぁ…」とため息をついた。
「そんなんだからダメなんだよ!いい、流れ星っていうのはどんなに長くても3秒で消えちゃうの。その間に3回願い事を言えるくらい、いつも頭の中にずーっと願い事を持っとかなきゃ叶いっこないの。弁天様のところに行ってみるように言ったのも、神様にお願いするときに何か言葉にするでしょ?それが君できてなさそうだったから、お参りに行くように言ったのに。」
「願い事なら毎日言葉に出してますよ」
「なんて?どうせ有名になれますように、みたいなぼやーとした願い事なんでしょう?」
「…」図星なので何も言えなかった。明莉さんの言っていることは何も間違ってない。行動を起こしていないのは自分だ。さすさす。
「でもね」
普段の明るい声に戻った明莉さんが言う。
「あの弁天様が願いを叶えてくれるっていうのは、本当だよ。」
真っ直ぐこっちを見ている。あまりにも真っ直ぐで、見ていると吸い込まれそうな瞳だ。
「それは私が保証する。」

朝から食べるクロワッサンは美味しい。栄養の偏りを気にしなければ毎朝でも食べたい。窓から入ってくる空気も今の季節は、心地よく涼しい。平和な朝だ。さすさす。
「…ところでさ、なんでさっきから足をさすってるの?」
「さっき階段を上り下りし過ぎて足が痛いんです!あの妖怪呼び戻し女のせいで」
「ふふっ、何それ?」
俺は明莉さんにさっき神社で会ったギターケースの女の子の話をした。
「へぇ、ギターを背負った女の子ねぇ。それってもしかしたら…いや、でもあの子はもう女の子って年じゃ…」
「その呼び戻し女って言うのは」
突然、窓の外から声がした。
「…こういう顔だったかい!」
窓からさっきの女の子が飛び出してきた。色んな意味で本気でびっくりした。「うわぁぁぁぁ!」なんて声を出してしまった。
「やっぱり、柑菜だったの」
「そう、妖怪呼び戻し女とは私のことだったのです。」
こっちに向き直って柑菜と呼ばれた女の子は続ける「こんなところで愚痴ってないでさ、それならそうと、面と向かって言ってくれればいいのにー。いい年した男のクセに、女々しいなあー」
さっきの丁寧な感じと大分キャラが違う。何か反論しようと考えていたら、今度は明莉さんの方を向いてしゃべり出した。忙しい奴だ。
「あ、明莉さん、行ってきましたよー、弁天様のところ。小さすぎでビックリしました。何て言うか、私が持っていた神社というもののアイデンティティーが崩壊しました」
「でしょ!私もそうだったの!」
ガールズ(?)トークが始まってしまった。こうなった時、話の輪に入っていくの、苦手。

二人の話が盛り上がっている間に、俺がどうして明莉さんと知り合うことになったのかを話しておこう。
この店は俺の家と最寄り駅の途中にある。あるとき暇だったので、通りに出ているカンバンを片っ端から読みながら駅まで行っていると、小さな黄色い看板を…

「ねえ、聞いてる?ねえって!」
ぺちり。おしぼりで肩を叩かれる。どうやら明莉さんから話しかけられていたらしい。まだ思い出話の序盤なんだけど。
「あ、ごめんなさい。ボーッとしてました」
「呼びかけにも応じないくらい考えに耽るって事は…人生、辛いの?」
「うるさい、呼び戻し女」
「柑菜。秋山柑菜。何回も明莉さんが呼んでんだから、覚えてよ。あと、呼び戻し女って気に入ってるみたいだけど、全っ然面白くないから。」
「そういうの思ってても行っちゃダメって、お父さんとお母さんから教わらなかったのか?」
柑菜の口元が一瞬だが「ニヤリ」と笑ったのを俺は見逃さなかった。そのまま下を向いて、柑菜は神妙なトーンで話し出した。
「ごめん、わたしさ、お父さんもお母さんも小さいときに事故でなくしてるの。」
「…それ、嘘だろ?」
「何で分かったの!?」
「二人とも長い!」
我慢の限界に達した明莉さんがモーニングのプレートをドンとテーブルに置きながら割り込んできた。
「だからさっきの話。ハジメはどうするの?」
あ、ハジメとは俺の名前だ。宮沢一。よろしくな。
「あの、さっきの話って何ですか?」
「本当に聞いてなかったの?だから、柑菜と二人で音楽やってみればっていう話よ。」
…?確かに、一緒にバンドやるメンバーが欲しい。欲しいけど、随分と乱暴な話だ。
「そもそも、僕の楽器ってベースですよ。これからメンバーが増えていくにしても、ベースとギターの二人ってアレンジも難しいですし、ステージにも立てませんよ。」
「…え、さっきギターって言ったじゃん。嘘だったの?なんでそんな嘘付くの!?意味分かんないんだけど!?」
驚いている柑菜は一旦無視して。
「今後入ってくるメンバーに対しても、あんまりにも二人でやって色が付いていると難しく…」
「またそうやって自分から夢を遠ざける。」
気付くといつものように、読まなくていい先を読んでやらない理由を並べていた。
明莉さんは残念そうな顔をしていた。
「ハジメ、今年でいくつになるんだっけ?」
「えーと、多分、二六です。」
どうせみんな、俺がやたら夢の話ばかりしてたから、主人公は十代だと思ってたんだろ?残念だったな。
「知ってる?女の子って芸能プロダクションに入ろうとすると二一超えたら一気にどこも入れてくれなくなるの。二六なんてもう論外ね。
何が言いたいか分かる?もう、何をするにも遅すぎるの。失敗したくないのか何なのか知らないけど、これだけ時間を掛けて何も進んでないのが一番の失敗だと思わない?」
「えーと」
俺が答えに窮していると、柑菜がジンジャーエールを飲みながらこちらを見てきた。
「話まとまりました?」
なんだか余裕な面持ちだ。
「わたしは全然オッケーだよ。」
足を組み直しながら。
「今までも色んな人と組んだことあるし。」
「ほら、柑菜もこう言ってるよ。」
強い哀れみと同情が俺に向けられているような気がした。学校に通ってるときから、こういう空気の標的になるのが一番嫌だ。
「…分かりました。」
「お、やったー!じゃあさ…」


こうして、俺は秋山柑菜と一緒に音楽活動をしていくことになった。これが弁天様のご加護なんだろうか?とにかく、「有名になれますように」が完全に敵うまでは、もっと馬車馬のように神様に仕事をして、運命を切り開いて貰わないとな。
「じゃあ、記念に握手」
そういって握った柑菜の手は、女の子の手とは思えないほど乾燥していて硬かった。毎日ギターを弾いていれば確かにそうなるのかもしれない。飄々としているが、見えないところで苦労しているのだ。
これからギターとベースで何が出来るのか考えなきゃな。そう思いながら、少しだけ周りの変化を受け入れられるようになっている自分が居ることに、まだ気付いていなかった。