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「真昼の泡」秋永真琴

 サッポロクラシックの六缶パックを買って、学校と家のちょうど中間くらいにある小さな公園を訪れました。
 公園といっても、鉄棒やブランコといった遊具はありません。まばらな樹に囲まれ、砂利が敷かれているだけの空間ですが、そのそっけなさが逆に落ち着くのです。
 ペンキが剥げてささくれだった木製のベンチに腰をおろして、わたしはパックの包装紙を破りました。
 手にした三百五十ミリリットルの白い缶は、表面がうっすらと濡れています。
 プルタブを開けた缶を目の前に掲げ、
「乾杯」
 なにに対してかは判然としませんが、とりあえずそういって、中味を喉に流しこみます。
 苦みと甘みがミックスされた、ビールだけが与えてくれる味わいに、ほう、と息がこぼれました。とくにクラシックは、麦芽百パーセントの旨味と、いさぎよく引いていく後味のバランスがとてもいい。
 ベンチの背もたれに身体をあずけ、頭上を仰ぎます。
透きとおった――というよりは、べったりと塗りつぶされたような濃い水色の空が広がっています。太陽は夏の訪れを予告してさんさんと輝き、見あげるわたしは自然としかめっ面になりました。
 午後一時。快晴です。
 日焼けをきらって木陰へ避難するのが正しい女子かもしれませんが、遠慮なく日向ぼっこの快楽をえらぶのが、わたし、安藤雪絵なのでした。
 日焼けうんぬんの前に、この状況が「女子らしさ」から逸脱しているかもしれません。
 でも、昼間だからこそ酔っぱらいたい。夜まで神経が保たないだろうという隠微な予感が降ってくるときがあって、今日がまさにそれでした。
 のどを鳴らして、たちまちひと缶めを飲み干しました。
 今日はピッチが早い。陽気のせいでしょうか。
 間をおかず、ふた缶めに手を伸ばします。

    ☆★☆

 いっしょに〈ラブ・アフタヌーン〉というバンドをやっていた、中学の同級生の玉木くんは、モデルみたいに甘い顔立ちをした、みんなの(とくに女子の)人気者でした。その無邪気さをだれもが愛しました。
 どのくらい無邪気かというと、彼が詞を書いた「DREAMS」という曲から、一部抜粋します。

 教科書どおりの人生なんかつまらない
 ほんとうの自分をみつけよう
 夢は信じればかならず叶うから

 パロディでも何でもなく、こんなフレーズを大まじめにサビへと持ってくる玉木くんの健やかさは、いっそすがすがしく、わたしは安心して作曲に専念することができました。
 あまりにも当たり前な言葉の羅列なので、どんな曲を与えても、それなりに似つかわしくなるのです。理論を勉強しはじめ、作曲が楽しくなってきた十四歳のわたしには、ありがたい状況でした。
 いままでは「こんな感じ」と、実際に弾いてみるしかなかった表現に、つぎつぎと名前がついてゆく。身体に雑然と溜めこんでいた音の連なりが、仕切りのついた箱に整理され、ラベルを貼られて、必要なときにすばやく取りだせるようになる。
 それは例えば、自転車に乗れるようになった瞬間に似ていました。自分が天と接続されたような万能感が、わたしを猛烈に駆りたてたのです。
 ふとした拍子で、天使の口笛みたいに頭の中へ響いてくるメロディの断片をつかまえたら、ルーズリーフでも、スマートフォンのアプリでも、なんでもかまいません。五線譜を用意すれば、指がするすると音符を連ねてゆきます。
 和音の概念、音階の概念、拍子の概念――覚えたての知識で、はだかんぼうの旋律を整え、飾ってゆけば、たちまちひとつの曲がかたちを成すのです。
 おまけに、詞の字数も、無意識のうちにちゃんと考慮されています。自分の所業とは思えず、魔法であやつられているような心地でした。
 もちろんそれは、未熟さゆえの怖いもの知らずだったのですけど。
「中二」でしたから。

     ☆★☆

 公園の前を通りかかった、わたしの母親くらいの歳ごろの女性が、汚いもののようにこちらを一瞥してゆきました。
 当然です。わたしは高校の制服を着たままなのでした。
いまどき珍しい紺色のセーラー服。髪は真っ黒のストレートだから不良にはみえないと思いますが、そういうことではありません。学生まるだしの恰好をした女子がサッポロクラシックを片手に、昼間から学校の外にいるのです。
 幸い、コスプレイヤーと思われるのか、単に関わり合いになるのを避けられるのか、おとなに注意されたことはありません。
 補導されたり、停学になったりするのは、もちろん困ります。だからって、せっせと私服に着替えるくらいの気力があれば、はじめからこんなことはやらない。なるようになるでしょう。
 アルコールを補給しながら、わたしはそっと瞳を閉じます。
 まぶたの裏に、陽射しの軌跡が残って、ぼんやり緑色に光っています。

     ☆★☆

 中三の春に、市内のインディーズバンドを集めて催されたイベントが、わたしたちが出たいちばん大きな規模のライブでした。
 強力なライトに照らされて、ステージの上は真夏みたいな暑さです。
 日常から切り離されて、いるだけで気持ちが昂ぶってきます。
 わたしは右側、客席からみれば左翼で、キーボードのセッティングを確認しています。
 その反対側――つまり右翼で、リストバンドを嵌めて、エレキギターの代名詞であるストラトキャスターを肩から提げた玉木くんが、マイクスタンドの高さを調節しています。
 こちらを向いて、ひきつった、でもやさしい笑顔をくれました。
 わたしの斜めうしろ――ステージ中央では、ドラムセットに囲まれた二瓶さんが、スティックをもてあそんでいます。ふたつ歳上の高校二年生。玉木くんの幼馴染みの先輩で、いつもほぼ本番ぶっつけでの参加なのですが、完璧な演奏です。ベーシストの不在を補ってあまりある、重厚かつ歯切れのいいリズムを叩きだしてくれます。
 百戦錬磨の二瓶さんですから、高揚は――少なくとも表には――あらわれません。いつでもオッケー。余裕しゃくしゃくの態度です。
 わたしは、心臓が壊れたように早鳴っています。やたらのどが渇き、いがらっぽくて、咳きこみそうです。お腹は石を呑んだように重たく、手足は妙にふわふわして、肉体の感覚が混乱しています。
 要するに、もの凄くあがっているのですが、周りにはぜんぜんわからないらしい。
 ――安藤のクールな顔をみてると、落ち着くんだ。
 ――雪絵ちゃんはほんと、動じない子だわ。
 玉木くんと二瓶さんのことばです。目が節穴だといわざるを得ません。感情の揺らぎが悟られにくいのは、いいことなのか、どうなのか。
 客席は、意外とよく見通せます。知っている顔なら、まず見落とすことはありません。
 百人くらいの観客の中には、おしゃれでかわいい女のひとが多い。玉木くんのアイドル的な人気に依るものです。中学生がフロントマンの未熟なバンドのライブにお客さんが大勢きてくれるのは、無条件でありがたいことでした。
「こんばんは。〈ラブ・アフタヌーン〉です」
 玉木くんの挨拶に、甘い歓声があがります。
「短い間ですけど、最後まで聴いていってください。じゃ、一曲めは――」

     ☆★☆

 気がつくと、わたしは「TOGETHER」のリフを鼻歌でうたっていました。
 カノンコードで、ギターをざくざくと掻き鳴らしてゆくポップな曲です。玉木くんも気にいっていたみたいで、ライブでの定番となりました。
 歌詞は「きみが辛いときはかならずそばにいるよ、それがぼくの愛だから」という、これもまあ、題名そのままのラブソングです。
「ラブソングか――」
 そんなつぶやきが口をついた、自分への羞恥をごまかすようにして、わたしはけっこうな量が残っているビールを一気に飲みきりました。炭酸でのどが灼けて、意志と無関係に、涙が薄くにじみます。
 それでも、わたしは三缶めを開封しました。
 のどや胃でなく、なにか別のところが渇いているような感覚がぬぐえません。そこへ届くように念じながら、金色の液体を体内に注ぎこみます。

     ☆★☆

「ウチの中学にも、楽器をやってるやつは何人かいるんだよ。ベースも」
 セイコーマートのイートインスペースで、紙パックに入ったひと口サイズのフライドチキンをかじりながら、玉木くんがぼやいています。
 彼とは練習の前後で何度も、こうやっていっしょに過ごしました。
「でも、オリジナルを演りたがるやつが、なかなかいない」
「みんなが知ってる曲をやるほうが、受けがいいから」
 簡潔に応えると、玉木くんはびっくりしたように「そう! そうなんだよ!」と何度もうなずいて、逆にわたしを驚かせました。
 なにか特別なことをいっただろうかと首をかしげながら、カフェラテ――お店の機械で淹れるやつです――を飲んだのをおぼえています。
「安藤、わかってるなあ! 安藤も食べなよ」
「うん」
 いつも玉木くんは、過剰なほどわたしを褒めたたえてくれるのでした。
 薦められて、ひとつフライドチキンを分けてもらいます。肉を包む衣が香ばしくておいしい。ビールに合う味です――と、さすがに当時はそういう視点で食べものを見ていなかったのですが。
「でもさ、おれはただ受けたいからギターやってるんじゃないんだ。いや、もちろん、人気はほしいけど、なんていうのかな――」
「存在証明だよね」
「ああ、それだよ! おまえ、頭いいなあ! そう、自分でつくって、自分でうたって、それをみんなに聞かせたかったんだ。安藤のおかげで、いま、夢が叶ってる」
 そんなことを、わたしをまっすぐ見つめて語る玉木くんの熱が、じわじわとこちらにも沁みこんで、ふだんはいえないような科白が唇からこぼれだすのは、倒錯的な快感がありました。
「――わたしは、自分の曲が、玉木くんにうたわれてよかったと思ってる」
「ほんとか? うれしいなあ! おれも安藤と出会えて最高だよ」
「あ、ありがとう」
 わたしとちがって、すこしの照れもなくいってのける玉木くんは、なんだか別の星のひとみたいで、いっしょにいて飽きることがありません。
 彼となら、ずっとうまくやってゆける。
 音楽を自作自演する快楽を、共有しつづけられる。
 無根拠で、浅はかに、そう信じていた傲慢なわたしは、決して「わかってる」わけでもないし「頭いい」わけでもない、ごくふつうの愚かな中学生でした。

     ☆★☆

「おい、こいつ不良だよ。ビール飲んでる」
 不良はそっちだと突っこみたくなる風体の男子がふたり、わたしに近づいてきました。いまどき学生服のズボンを脱げそうなほど浅く穿いています。
「暇なんでしょ、カラオケいかねえ?」
「いかない」
 わたしは尖った声で即答し、ビールをひと口飲みました。
 男子たちは「脈ありだぜ」というようなにやにや笑いを浮かべています。わたしが遠慮している、あるいはかけひきで断るそぶりをみせていると思っているのでしょうか。
 そんなふたつの顔を眺めながら、やっぱり玉木くんはきれいな男子だったのね、と再認識しました。
 あのてらいのない、まぶしい笑顔が、なつかしい。胸の奥がぎゅっと縮まります。
「ほかに女も呼ぶし、心配すんなって」
「ほら、来いって」
 ひとりがわたしの腕を取って、強引に立たせようとします。
 嫌悪に背筋がざわつき、反射的に、ビールをその顔に浴びせていました。「うえっ」と男子がひるんで、手を離します。
「なにすんだ、てめえっ」
 もうひとりが叫びました。
 大声を出されるのは、こわいです。身がすくみます。しかし――
「なんなのよ、その顔。むかつくんだよ」
 恫喝から察するに、わたしは冷然とした、ふてぶてしい表情のようでした。緊張も、虚勢も、気づかれない。ライブのときと同じなのでしょう。
「なにすんだ、じゃないよ」
 たしかに、声も震えず、ぴんと張りつめています。他人の声を聞いているように、そのことがわかりました。
「いかないっていってるの。帰ってよ」
「男舐めてんじゃねえぞ」
「舐めてないよ」
 ふいに、どろどろしたものがお腹の底から湧きあがってきます。
「わたしはまじめよ」
 自分のことばに自分で激してくるのを、わたしは抑えようとしませんでした。おっくうなのです。めんどうなのです。理性の膜がはがれてゆきます。
「なにがわかるの」
 わたしの精神が麻痺していたのは、アルコールのせいでしょうか、それとも怒りのせいでしょうか。怒りだとしたら――だれに対して?
 脅される恐怖より、ずっとみじめでつらい記憶が、血の替わりに全身を巡っています。
「あんたたちになにがわかるの」
 立ちあがって、男子たちを見据えます。
「なにが舐めてるっていうのよ。じゃあどうすればよかったのよ」
 男子たちは薄気味わるそうに目くばせしました。
「わけわかんねえ。なんだてめえ」
「おい、行くべ」
 身体のちいさい、非力な女子にすぎないわたしが、彼らの手に余ったらしく――
「昼間っから制服で酒飲んでんじゃねえよ、バカ」
「学校にチクってやっからな」
 口々にののしり、嘲笑をひびかせて、男子たちは汚いリズムの足どりで去ってゆきました。
 公園に静けさが戻ってきました。
 わたしは尻餅をつくみたいにして、ベンチに坐りこみました。
 四缶めのビールを、水みたいに胃へ送りこみます。
 ひと心地ついたとたん、わたしの身体はこまかく震えはじめました。麻酔のかかっていた恐怖が、時間差ではたらいたのです。殴られてもおかしくない状況でした。
 かちかちと鳴る歯をかみしめ、バッグから手鏡を取りだして、いまの自分の顔を見つめました。
 きれいといってくれるひともまれにいますが、自分ではあまり魅力的と思えない、ガーリィな甘さを欠いた顔です。それはやはり、造作よりも表情のせいであり――
 玉木くんと最後に会った日も、わたしはやはりいまみたいに、ものごとに倦んだような、変化のとぼしい表情を張りつかせていたのでしょうか。

     ☆★☆

「解散しよう」
 わたしが貸していたCDや本をすべて紙袋に詰めてきた玉木くんが、いつものセイコーマートのイートインスペースの、いつもの席で、そのひとことを発したのは、中学の卒業式の日でした。
 ことばの意味が脳に浸透するまで、数秒かかりました。
「二瓶さんにはおれから話しとく」
「どうして?」
 疑問でなく、否定をこめて、わたしはいいました。
「受験が終わったら、再開しようっていってたでしょう」
 玉木くんに、ふだんの明朗さはありません。目を伏せて、もぞもぞと指先をすり合わせています。
「安藤はさ、もうおれと組んでいても、得しないよ。おまえの才能をいっぱいに引きだしてくれるやつをさがしたほうがいい」
「なに、それ」
 わたしは玉木くんを凝視していました。首も肩も凍りついたように固まり、自分の心音がやけに耳障りでした。
「わたしは〈ラブ・アフタヌーン〉が好きだよ」
「嘘だ」
 こんな厳しい口調で、玉木くんがわたしを否定するなんて。
「安藤は音楽的にどんどん凄くなっていって、おれのレベルにむりやり合わせてるだろう」
 わたしは絶句しました。そんなことない――すぐにいいたかった。いいたかったはずなのに、のどが硬く締まって、声になりませんでした。
 玉木くんが、わたしと目を合わせました。
「おれはさ、安藤が、もしかしたらおれのことを好きなんじゃないかって思ってたんだ」
「え――」
 心臓が停まらないのがふしぎでした。
 なんで、いま、そんなことを?
「それなら、甘えてもいいかと思ってた。安藤にとって、おれと演る意味が、そこにあればさ。でも、そうじゃないだろ。じゃあやっぱり、おれといっしょにいちゃだめだ。安藤みたいに頭よくないけど、それはわかる」
 玉木くんの落ち着いた口ぶりは、思いつきではなく、以前から考えつづけて達した結論であることの証です。
 対してわたしは「そんな――そんなことは」と、うわごとみたいにくり返すばかり。
「けっこうおれ、自分の気持ち、態度に出してたつもりだよ。でも、安藤の気持ちはよくわからなかった。いつもクールな顔をして、そこがかっこいいんだけど、正直いって、安藤のことは、最後までわからなかった」
「最後までって、そんな――いま、こんなときに、そんなふうにいうなんて、だって玉木くん、そんな、ずるいよ」
 のろのろと惑っている思考より先に、おぼつかないことばが口からこぼれます。
「安藤は、音楽がいちばん大事だろう」
「玉木くんだってそうじゃない。存在証明だっていったじゃない」
「おれは――おれは安藤と、ちがったんだ」
 玉木くんはさびしそうにほほえみました。どうして笑えるのか、そのときのわたしには理解できませんでした。
 わたしは、ほんとうに、傲慢で愚かな中学生だったのです。
「安藤にとって音楽は、存在そのものだよ。証明なんかいらない。おれだって、いいかげんな気持ちでやってんじゃないけど、安藤みたいにはなれない。いっしょにやってきて、思い知ったんだ。安藤は、天才だって。天才ってこういうやつをいうんだって」
「やめて」
「だから、安藤はわるくない。おれの勝手な――」
「やめてってば! そんなことば、聞きたくない!」
 わたしはステージ上でも出したことがないような声で絶叫しました。

     ☆★☆

「いやいや、びっくりしたわ」
 髪を逆立てて、黒ぶち眼鏡をかけた男のひとが、呆れたようにいいました。
「制服でビール。世間に遠慮のない女がいるなあと思ったら、雪絵ちゃんなんだもんよ」
「すいません。恥ずかしいところを」
 わたしはうつむきました。
 偶然、公園の前を通りかかった、二瓶さんです。ひさしぶりにお会いしました。
 最後に三人で音を合わせたのが、去年の十月の活動休止ライブです。
 それから、受験が終わり、玉木くんとの関係も終わり――別の高校なので、会わずにいるのは容易でした――だらだらと生きていたわたしが、すばらしいドラマーである二瓶さんと、こんな最低のシチュエーションで再会するなんて。はじめて、公園での飲酒を恥じました。
「あの、二瓶さん」
「玉木かい」
「――はい」
 彼は二瓶さんを慕って、同じ高校に進み、そこの軽音楽部に加入したはずでしたが、たしかめる術がありませんでした。
 ――いいえ。わたしからメールを一本送れば、玉木くんはこころよく近況を聞かせてくれることでしょう。わたしが連絡を拒んでいるというだけです。
 玉木くんに自分から関わる資格は、わたしにない。そう思うことで、贖罪を果たしているような自己満足がありました。
「がんばってるよ。新入生同士でバンドをつくって、熱心に練習してる。あいかわらずモテモテだわ」
「そうでしょうね」
「雪絵ちゃんのこと、心配してたよ」
 ととんっ、と心臓が変拍子を打ちました。
「安藤は、いい仲間と出会えてるかな。〈ラブ・アフタヌーン〉を忘れるような、いいバンドをつくれてるかな。そんなことを、一度だけいってたわ」
 空になった缶を、わたしは無意味に指でへこませていました。
「もう、メールもやりとりしてないのかい」
「着信拒否にしました」
「果断だなあ」
「二瓶さん」
「なんだい」
「わたしは――」
「うん」
「わたしは、たぶん、玉木くんが、好きでした」
 請われもしないのに、わたしは自分語りをはじめていました。
 溜めていたものが、ついに溢れだしてしまう感じでした。いつかはこんなときが必要だった――そのために、神さまが二瓶さんを遣わしてくれたのかもしれません。二瓶さんにはいい迷惑でしょうが。
「でも、その好きは、舐めているのと同じ意味でした」
 舐めてんじゃねえぞ――不良の脅し文句。
 発した者がまったく意図しない威力を帯びて、その言葉はわたしの罪を責め立て、わたしを逆上させたのでした。
「玉木くんを、生温かく、侮って、赦していました。もっと複雑な曲をつくって、もっと腕のいいプレイヤーと演りたい――そんな欲求もたしかに芽生えていました。彼に指摘されて、わたし、すぐにちがうっていえなかった。自分でも、その瞬間まで気づかなかったことを気づかされて、気持ちが揺れたのを、見抜かれました」
「バンドってね、やってるうちにどうしても、意識や力の差が生まれてくるんだわ」
「ちゃんと話せばよかったんです。もっと、こころに食いこむような詞を書いてって。もっといい曲を書けるようにわたしもがんばるからって。玉木くんと、これからも最高の関係でいたいって。そうすれば――」
 玉木くんは、傷つかなかったかもしれません。
 きっついなあ、安藤。でも、がんばるよ。もっと本とか読んで、かっこいい詞を書く。そして、ずっと安藤といっしょにいる。いっしょに、演る。――そういってくれたかもしれない。
 わたしは、自分と彼に無言で嘘をつくことで、仲間の玉木くんだけでなく、ひとりの男子としての玉木くんを、致命的に傷つけたのでした。
 そんなふうに思うことも、しょせん、わたしの身勝手な感傷ではあるのですけど。
「雪絵ちゃん」
「はい」
「世界は広い」と、二瓶さんは唐突にいいました。
「ジャズが生まれた国がある。パンクが生まれた国がある。ボサノバが、ブルーズが、テクノが、いろんな時代に、いろんな国で生まれた」
 世界は広い。――二瓶さんはくり返しました。
「そして、そんな世界の数だけ、音楽があって、音楽をやってる人間がいる」
「はい」
「だからさ、雪絵ちゃん。また仲間は見つかるよ。最高のバンドを組んで、玉木のバンドと笑いながら共演できるときが、ぜったい来る。そういうもんなんだわ」
 そういって、二瓶さんは頼もしい笑顔を浮かべました。

     ☆★☆

 二瓶さんと別れて、わたしは帰路についていました。いまから学校に戻っても、ちょうど五時限めが終わってしまいます。今日はもう、いいや。
 最後のひと缶となったサッポロクラシックを飲みながら、アパートや居酒屋、古本屋などが立ち並ぶ学生街を歩いています。五缶めは二瓶さんに差しあげました。二本とも渡そうとしたのですが、
「おれは雪絵ちゃんとちがって酒が弱いから、一本あれば充分」
 だそうです。まあ、どちらも未成年ですから、強い弱いの問題ではないのですが。
 のんびりと歩を進めるわたしは、二瓶さんの話に触発されて生まれた思いを、水の中を泳がすように、脳裏で遊ばせていました。
 お互いを尊重しながら、ずっとうまくやってゆける。音楽を自作自演する快楽を、共有しつづけられる。そんなひとと、ふたたび出会えるでしょうか。そして、玉木くんを忘れるのでしょうか。今の悔恨も薄れていき、そのことを後ろめたく思い、そう思う気持ちも、やがて消えて――
 そのときわたしは、真昼のビールを完全に手放すのでしょう。
 陽射しはさっきよりやわらかくなり、そよ風は肌に心地よく、あたりはふしぎな静けさに包まれています。聞こえるのは、わたしだけに降ってきた天使の口笛のみです。
 そう、降ってきました。ひさしぶりに音楽の断片が。
 帰ったら譜面に起こそう。とにかく、曲をつくろう。
 だれにも聴かせずに朽ちてゆくなら、それでかまわない。でも、あたらしい仲間と――そして、ふたたび玉木くんと出会えたときに、なにも持っていないわたしではいたくない。
 空になった缶をバッグにしまって、わたしはわずかに歩調をはやめました。
 いま浮かんだ音楽のテンポに合わせて、アレグレットの速度で、地面を交互に踏んでゆきます。

【了】

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