見出し画像

徒然なるままに書き連ねてゆく

タイトル通りですが、箇条書き形式で経験したことから色々思ったり考えが変わったことを書いていこうと思います。

"生きる"ということの認識が、少し変わった

少し前になりますが、祖母が亡くなりました。目の前で息を引き取るのを見守っていました。亡くなる直前、心臓が止まりかけては自分や親の呼びかけに応じるかのようにまた心臓が動き出す、ということが何回もありました。「おばあちゃんすげえ」と思うと同時に、「あ、心臓動いてる限りは"生きてる"ってことなのか」と当たり前のようで自分にとっては当たり前でなかったことを感じていました。"生きる"のって、案外障壁の低い、自分の意思とは関係ないところにあるんだなと、認識が少し変わったような気がしました。

君たちはどう生きるか

調べたところソクラテスは「食べるために生きるな。生きるために食べよ」「ただ生きるということではなく、善く生きることこそ最も大切にしなければならない。」と言ったそうですね。確かに地球は数多の発明や技術革新を経て、一般的に"生きるために食べる"ハードルは低くなっていて、ソクラテスの言う”善く生きる”選択肢をとれる人も増えていると思います。それなのに、実際に”善く生きる”選択肢を取っている人、世界市民として生きている人の方が多いのかと聞かれればそうでない人の方が圧倒的に多いと思うし、日々流れる残酷なニュースを見てもそれを裏付ける内容ばかりだと思います。
先日、宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を見ましたが、主人公のクライマックスで選択した生き方だってそうですよね。ソクラテスの時代から言われていることは僕含め現代に生きる人が胸に刻むべきだと思うけど、それが人間の本質であり人間らしさなのかなと思うと納得できました。「人間はそう簡単に変わらないんだ」という諦念的な心境を定数として、「じゃあどう生きようかな」というところはまだ考えて選択肢を選ぶ余地があると思っていて。やっぱり技術を通じて負の課題を解決する、という軸はブレないなと思います。

善く生きるの、むずくない?

一丁前にたまに色々考えてることはあっても、ついつい「食べるために生きる」選択肢を取ってしまいそうになること、ありません?ちなみに僕はあります。
「〇歳で〇千万になるために〜〜」とかいう類の話とかを聞いたりネットで見たりすると、それ手段じゃないんか〜と思います。いざ自分のことになると、確かにそういうことも頭をよぎります。
「稼ぐの大事だし稼ぐための選択肢を取ってもいいけど、ずっと稼ぐために生きるわけではない」ということだけ、はっきりしておきたいですね。

人間観察

完全に話題は変わります。この前友人と話した時に言語化したんですが、自分は人と話す時、大体"底"を測っているんですよね。"底"を測って、その人との会話で大体どういう返答が返ってきそうかとかを予測して話題とかも考える癖がついてるようです。偉そうに、って思います。反省です。

本当に、徒然なるままに書いてしまいました。また何か思ったら追記していきます。


















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?