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「やさしさ」の輪郭と循環 #わたしとcotree

いつもお世話になっているオンラインカウンセリングのcotreeさんの様子をTLで最近見ていて、彼らが訴えている「やさしさ」の形、すごくいいなあっていつも思いつつ、ちょっと一歩引いて見ていました。

「表面のサービスは複数あるし、彼らが伝える「やさしさ」はいっぱいあるsし、ユーザーさんの声もいろいろだけれど、「やさしい」って結局なんだろう?」と。

今日はそんな彼らを見ていて自分が勝手に思った、「やさしさ」の輪郭とその循環の話。

「やさしさ」の要素を3つに分解してみた

彼らに限らず、やさしさを訴える人はいますが、共通して見えるものってなんだろうと整理してみた結果が下の図。

「頼る」「自分を知る」「表現する」の3つのサイクルを上手に分解して回している人が、「やさしい人」なのかなあって中の人の皆さんや他のユーザーさんを見ていて思いました。

「頼る」=上手に人に依存する

かつて自分が抱えていたうつ病にしても、あるいはうつ病という程ではない心の不調にしても、心の辛さって孤立と深く関係しているのは、かなり認識が深まってきたと思います。

誰にも依存できないが故に、孤立し、心が辛くなってしまう。「弱いから心が不調になる」では決してない。

それは東京大学の熊谷晋一郎先生の「自立は、依存先を増やすこと」という言葉にも現れているとおりです。

オンラインカウンセリングの「cotree.jp」や互助のための「Takk!」、起業家コミュニティーの「escort」にしても、「まずは上手に人に頼ろうよ」っていう彼らのメッセージに読み取れました。

人に頼ることは、「自分で全部背負うのをやめよう」って自分で自分にやさしくなること。許可を出すこと。(逆にそこまでのハードルがとっても高いので、どうやってまず頼るの?というのはそれはまた別の問題。)

だから、上手に人に依存できる人は、人に対してもやさしい人がとっても多い印象もあります。

人に頼る、依存できる人はだれもが辛さを抱えていることを知っている人で、だからこそ「あなたの辛さも一緒に背負わせて」って言えるから。それってとっても「やさしい」ことでもあるから。

「自分を知る」=自分の凹凸を知っている

最近バズが止まらない勢いのcotree社の性格特性診断。

自分は受けてはいないですが、これがどうして彼らが伝える「やさしさ」につながるんだろう、という疑問もパッと見て思っていました。

いろいろ考えていたのですが、自分の凹凸や傾向を知ることで、自分の良いところや苦手なところを知り、それを通じて「自分は完璧じゃない」って知れるから、なのかなあとぼんやり思いました。

それは決して絶望的なことじゃなくて、「俺は◯◯が得意で☓☓が苦手なんだ。じゃあ俺は◯◯を責任持ってやる。だから☓☓をやれる人に頼ろう。」って思えること。同時に☓☓をやれる人に出会った時に、「お前にこれを任せた!」って他者を信頼できることにもつながる。

そして自分が完璧ではない、人に頼ることを知っているから、他人の凹凸にも寛容になれて、結果「やさしい」につながっていそう。

「表現する」=受け取ったものを自分らしい形にする

最近中の人の皆さまが始められたnoteのマガジン。(厳密には彼らのサービスではないのだろうと思いますが・・・)

「サービスと人への信頼が、使うかどうかを決める大きな要素になる」と平山さんはよくおっしゃっています。だからこそ、自分たちクライエントに自己開示や寄りかかることを求める前に、中の人の皆さま自身が先に自己開示やご自身のストーリー、そして学んだことも書かれているんだろうと思います。

でも、本当にそれだけかな?とも最近は思っていて。

人に依存してもいい、寄りかかってもいいと安心できて、自分を知ることができたやさしい人は、それを自分らしい形に昇華させて表現したくなるんじゃないかなあと感じています。

表現をするっていうことは、自分を外にだすことでもあり、評価の世界に晒されることでもあります。ある意味自分が傷つくリスクを背負うことでもある。

でも、安心感が、そしてやさしさが根底にあれば、自分が感じたことを表現しても、「絶対、大丈夫だよ」と確信が持てて、一歩前に踏み出せるんじゃないかなあと。

インターンの板野さんがご卒業された時に見ていた時に、うっすらそんなことも感じました。

(※「表現する」ってnoteを書くとか、歌にするとか、ウェブサービスにするとか、そんな仰々しいものでなくてもよくて、機嫌よく仕事してるとか、美味しそうにご飯食べてるとか、元気に学校に行ってるとか、そんなことも立派な「表現」だと個人的には思っています。)

3つの要素を循環させていきながら、やさしくなれる

頼る」「自分を知る」「表現する」の3つは、相互に排他的じゃなくて、互いに深く絡み合い、循環しているような気がしています。(先程の図を下記に再掲)

・「頼る」ができると必然的に自分に向き合うことになり「自分を知る」ことに向き合わざるを得なくなる。そして問題解決のためにどうやって行動をする?(=「表現する」)ということにもなる
・「自分を知る」と、自分の凹凸や傾向がわかり、どうやって人に「頼る」?という問いになる。同時にそうやって自分を知ったことでどうやって「表現する」?ということにも向き合うことになる。
・「表現する」と、人から見た自分の姿がフィードバックされて、「自分を知る」ことにもなるし、「表現する」人の周りには居場所ができて「頼る」こともできそうな感じがする。

3つの要素を互いに行ったり来たりしながら、循環させていくうちに、螺旋階段を登るように、人はやさしくなっていくのかしら、とcotreeさんたちや他のユーザーさんの姿を見ていて思います。

「やさしくなれる」はある意味強者の論理

上記のような、気付きや学びは彼らから得たものではありますが、そういう過程を経て「やさしくなれる」のはある意味「自分たちが強者だから」ということも忘れてはなりません。べとりんさんの言葉を借りれば、「強者の論理」。

人に頼ることができる、自分を見つめ直して自分を知ることができる、それらを自分らしい形にして表現できる。それは裏を返せばそれだけの余裕がある、ということでもあります。

自分も、精神疾患で心が渦中にあるときは気づかなかったけれど、人に頼ることができる、ということさえも「強者の証」なんだと今ならわかります。

頼ることさえできないまま、命を絶つことしかできない人もいるから。(なんなら自分もかつてその一歩手前くらいまで行ったことがありますが、いろんな人が引っ張ってくれて今があります。)

だから、「やさしさを3つに分解してみた~」とか言ってる時点で、人によっては綺麗事に聞こえるのかもしれません。それも十分承知の上です。

それでもクライエントの自分たちができること

ただ「強者だから不幸になれ!贅沢だ!」と言われても、そういう気持ちになれない自分がいるのも事実です。

だって、強者でも弱者でも、自分が辛さや苦しさを抱えていたのも事実だから。その苦しさは、誰かと比べられるものでもないし、同時に自分ひとりだけのものでもあるから。辛さや苦しさはたくさん抱えて我慢したほうが偉いわけでもないから。

ですが、自分は起業家でもありませんし、臨床心理士でもなければ、哲学者でも、マーケッターでもありません。彼らに寄りかかっているふつうの人間の一人ですし、なんなら精神障害と難病を背負っている、ただのだめな若造です。

じゃあ、そんなクライエントの自分たちができることってなんだろう?って思ったら、逆説的だけど、「やさしくなっていく」ことしかないんだろうと思います。

自分たちクライエントの一人ひとりが、人によりかかり、自己理解を深め、自分らしさを表現していった先に、今よりもちょっとやさしい自分になれるかもしれない。

ちょっとやさしい自分になれたら、そのやさしさを誰かにおすそ分けするくらいしか、自分にはできないと思います。そんなおすそ分けしたやさしさを、つらい気持ちになっている誰かが受け取って、受け取った誰かがまた自分に対してやさしくなって・・・を繰り返していく。

イノベーティブなプロダクトを発明したり、何十何百という人に寄り添うカウンセリングをしたり、誰もこぼれ落ちることのない完璧な社会構造をつくることはできないけど、それくらいのことならできそうです。

(※誰かのために自分にやさしくなれ、ということではなくて、まず自分で自分のためにやさしくなって、その結果・・・という意味です。念の為補足。)

普通の会社員やってても、自分に対してやさしくなり、ちょっとニコニコして仕事してるとか、おいしそうに唐揚げ食べてるとか、そんな感じの人が増えたら、確かにやさしい感じがするでしょ?

cotreeさんが掲げる「やさしさでつながる社会をつくる」っていうビジョン。彼らの姿から見ていて、そして彼らのやっていることから見て、自分はそんな風に受け止めました。

写真は日本橋オフィスに遊びに行かせてもらった日の帰りにとった夜桜。路上でブルーシート敷いて呑んでるサラリーマンがいっぱいいたけど、張り詰めた日常から放たれて、ちょっとやさしい顔した人が多くいた気がします。

これを読んだあなたが、ちょっとでも「やさしさ」について考えるきっかけになってくれたら、という願いも込めつつ、今日はこのへんで。

自分もあなたも、明日をやさしく迎えられますように。